2018年12月21日金曜日

吐きそうな気持ちの後に泣きたくなったその後で


こんなにも心を揺さぶられるなんて思ってもいなかったことが起きた。

久々に帰国した翌日なので、ランチはやっぱ日本食たべたいな〜♪ なんて思っていた気持ちなんて一気に吹き飛ぶ。

空腹だったのに、全く食事をとりたいなんて思えない。

何も食べていないのに、吐き気まで。

空腹なのに吐き気をもよおすことなんてあるんだ。知らなかったよ笑

プレッシャーとかではない。ただ、自分がどう判断したらよいのか、本当にわからなくなって、でも判断をしなければいけなくて迷っていたのだと。

心底、どちらを選べばよいのか、本気で悩むとこんな状態になるのだと知る。

そして、選択肢を天秤にかける時に、自分が選ぼうとしている選択肢が、自分の単純な思いとは逆の選択肢でもあることで、どうしようもなく悲しく泣きたくなった。ほんとは、ちょっとだけ泣いた笑

でも、結局自分自身に問いかけるのは、他の誰かの期待に答えるというそんな殊勝な気持ちではなく、自分自身の心がどちらを選びたいのか?ということなのだと思う。

そんなに100:0なんてシンプルな天秤ではないからこそ、人って悩むんだ。

そして、こんなヤバめの悩みも人に相談できれば、すっごく気が楽になることも知った。

今はもう大丈夫。

この道を進むと決めたからには、全力で進んでいく!

ではでは、またね。
脇坂

2018年12月19日水曜日

組織じゃなくて人なんだ


ビジネスプランとか事業展開の計画とかを考えていると、会社とか部署とかチームって単位で計画を考えるのが習慣になりやすい。

でも、これだけじゃダメなんだろうな、って。

組織って一つの単位で人間は行動している訳ではなくて、組織の中の一人一人の個人が行動しなければ、結果として組織の行動にはならない。

当たり前のことなんだけど、やっぱりこういったことも大事だなーと。

そんなことを思ったここ最近。

ではでは、またね。
脇坂

2018年11月7日水曜日

覚悟を持てる範囲:責任者としての責任ってなに?


一口に責任感がある人といっても、いろんなジャンルがあるなーと思う。

自分で責任をとる覚悟を持っていること、それは大切だと思う。

でも、その覚悟を持てる範囲はどこまでなのか?

例えば、組織の責任者でその覚悟を持っている人がいたとしても、
・あらゆる意思決定は自分がしたのだから自分が責任を負っているという人、と
・部下に意思決定を任せたというのも自分の判断なのだから、部下の結果も含めて、そこまで含めて自分の責任だという人
はかなり違う気がする。

前者は、部下に決定をさせることを嫌う。自分で責任を負う覚悟があるということが、全ての意思決定は自分がする、というスタイルにつながっている場合、超官僚的な組織になって何も意思決定が進まない。逆にしっかりとした意思決定をせずになし崩し的な運営も起きてしまう。

後者のスタイルが望ましいんだと思う。部下にここまでは任せるから、その裁量の中で好きにやってみて、と相手を信じて仕事を頼める上司。その上で、部下がミスをしたとしてもそれすら自分が相手に委ねた結果だから、くらいに受け止めるような人になりたいな。もちろん、任せてもらった部下の立場からは、信頼してくれた上司の期待に答えるようにしたいし、ダメなら、自分も責任をとるんだ、という覚悟もあるべきだと思う。

むかし上司に、期待してくれた成果を脇坂がだせないと判断したら、(自分のクビくらいでは全然上司にとって割りが合わないでしょうけどw)いつでもクビにしてくれていいですよ、とか話してたなー。まぁ、それはちゃんとやるから仕事を任せて欲しい、というアピールでもあったわけだけどw

なんか、そんなことを思い出した今日この頃。

ではでは、またね。
脇坂


2018年11月2日金曜日

過程と結果は等価じゃない


結果が全てだ!というメッセージはすごく残酷な響きを持っているけど、実際に結果は大事だと思う。

その一方で結果だけで、よかったのか悪かったのかを判断されるのがイヤな人たちもいて、そういった人たちは過程も大事だ!と訴える。

確かに、過程も大事だ。

でも、過程がどんなに美しくても、結果が伴っていないなら、正直、意味はないというか持続性がない。

成果がでない過程が美しい“頑張り”をどれだけしたところで、続けられない。

過程と結果は等価ではないんだ。

言うなら、ぼろぼろの過程であったとしても成果がでていれば、改善の余地がある。同じ成果を出すために、どうしようもなかった過程を改善することができるのだから。

でも、どんなに美しい過程であっても、成果が出る見込みがないなら、続けること自体が難しい。私たちはとても頑張ったんです!と言いたくなる気持ちもわかるけど、頑張ったことと成果がリンクしなければ持続性はない。それにやっている人たちも、イベントのように短期間であれば、過程だけでも楽しむことはできるだろうけど、成果を伴わない活動を何年も続けるなんて普通の人には精神的にもできないはずだ。

もちろん、最終的に成果をだすことを目的に過程も大事にしているならそれが一番いいのだと思う。

何も世の中には、成果だけの志向の人と、過程だけの志向の人がきれいに二分して存在する訳ではなくて、自分も含めて多くの人はその両極の間のグラデーションの中にいるんだと思う。

でも、成果を追うことを放棄した人たちは、なかなか自分とは相性が悪いな〜と改めて思った。

もちろん、人生なので楽しみつつ、成果を追っていきたい。まぁ、自分は成果を追うこと自体が楽しいんだけどね笑

そんなことを思った今日この頃。

ではでは、またね。

2018年10月20日土曜日

心の指し示す方向へ


ここ数年、考えることは少なかったんだけど、
久しぶりに自分は何をしたいんだろ?と考えてみた。

で、ちょっと意外だったのは、思ったよりも全然迷わなかったこと。もう少し、悩むかな、とも思ったりもしたんだけど。

ほぼ即決な感じw

あまり何かを決めるときに即決するタイプではなくて数日は考えるタイプなので、そう行った意味ではちょっと意外。

自分がやりたいと心から思えることをした方がいいんだ。やりたくもないことをしていると心が疲れてしまう。それにやる気だってでない。もちろん、時にはやりたくないことだってやるし、それをやらなければいけない時もある。

でも、やっぱり自分がやりたいことって大事なんだと思う。全てはその為にある、ってくらいに。

自分自身を考えても自分がやりたいことって、確かに漠然としたものなのかもしれない。

でも、それに一歩づつでも近づいていると思えることじゃなければ、自分の時間を、人生を費やすことに意味は見出せない。

それが判断基準になっているんだろうなー、と。

どうなるか全く予想もできなくても、楽しそうな方へ、ワクワクする方へ進んで行きたい。

10年前、20代後半に、大きく進路変更をする時になかなかの属性変更で、どうなるんだろ?と少し考えたりもしたけど、まぁ、それでもその時もワクワクの方が勝ったから今に続いているんだけど、そういった迷いがちょっとだけ減ったのかな、ともw

まぁ、何も迷わないような状況ってそれはそれで危ういので、この先も自分がこれでいいのかなーと定期的に眺められる感覚はもっていたい。

それに悩むことも別に悪くはない。自分の心が迷っているなら、その迷いに向き合うのも必要だと思うし。そうなった時はじっくりと考えればいいさ。

そんなことを思ったここ最近。

ではでは、またね。

2018年10月19日金曜日

炎上プロジェクトのギャラリーになってはダメだ

地獄の景色のような炎上プロジェクトってこれまでいろいろ見てきた。

で、とても不思議なのが、こう言った炎上案件って、当事者はどうしているのか?というと、意外とただただ成り行きをギャラリーとして見守っているだけで、何のアクションも起こさない人が多い。

確かに、こう言った炎上案件についても、意外と「誰のせいでもない」と逃げることができるケースも多いんだよね。

いや、誰のせいでもないってことはないでしょ?と突っ込みたくなるかもしれないけど、意外と当事者になってしまうと「少なくとも自分たちのせいではない」という言い訳をしながら、自分たちは悪く無いんだ、となぞのセルフマインドコントロール状態に入っている。

と言っている自分もガチの当事者であまり自信がない時なんかは「こんなもんなのかなー?」と思いたくなってしまう誘惑にかられる時もある。でも、やっぱりそのうち、変だぞ?!という気持ちが強くなってくるんだけどw

燃えさかる炎(案件)をただただ眺めているだけのギャラリーの気持ち(言い訳)もわからなくはないけど、自分は傍観者になれない。性格的にw

え?!マジですか?!この道、ずっと進んで行っても断崖絶壁で道なくなりますよ?方針転換しましょうよ!と言いたくなってしまう性格。

こう言った状況で思考停止っぽい傍観者になってしまう人たちの特徴としては、命令というか指示というか契約、なんでもいいけど、少なくとも自分たちは自分たちのやるべきことをやっているんだ!とほぼ全員が答える。

そう、ある意味、自分たちでコントロール不能なそもそもの設計というか指示が間違っている、、、だから仕方ないんだ、と。

でも、もう、未来が見えないのにその仕事を続けるって精神的にツラくないですか?

そう言った時に、そもそもの設計が間違っていてうまくいっていないんなら、ちょっと修正しませんか?とか、もう中止にしませんか?と切りだす人って必要だと思うんだよね。

そもそもこの仕事を何のためにやっているか思い出しましょう、と。そこにつなげるために修正するか、つながらないなら中止して終わらせましょう、と。

無謀で未来がない命令に従う人って今の時代も意外と多いんだな。

人任せにしないで、自分の意思で考える、ってことをもっとするようになれれば、もっともっといい世界に近づける気がするんだけどな。

そんなことを思うここ最近。

ではでは、またね。

2018年10月18日木曜日

組織運営にメディエーターは必要かも


最近、平和学してた頃にやってたメディエーターっぽいことをする機会があった。組織を円滑に運営するには、メディエーターって役割って大切なのかも。

組織内での対立ってあちこちで起きている。もはや日常の風景とでも言えるレベルじゃないかな。

例えば、方針を決める本部と、サービス提供する現場の乖離とか。日本の本社と海外支社とか。本部は現場を何もわかっていない!ってセリフはあちこちで言われている。

理想的には、そういった対立が起きてしまった時は、なんで対立しているのか?お互いにガチでケンカすること自体が目的そのものではないよね? なんのためにこんなに対立しているんだろう、ってことを紐解いていくしかないんだと思う。

電話で話そうにも、電話のベルがなったら、それが試合開始のゴングのように口論が始まる、、、なんて不毛すぎる。。。

まぁ、普通に組織で何人かの人が集団を作っていれば、意見や考え方が違うのは当然なので、それが対立要因になることだってあると思う。

でも、そういった状況になりつつある、または、なってしまった時、もう当事者同士ではどうにもできない泥沼化していることもあったりするんだよね。

あ、この状況って、すっごく似ている。10年前の景色にw

平和学でもメディエーターって役割があったんだよね。いがみ合う二者がもう会話すらできない状況になった時に、第三者が間にはいることでポジティブな対話を促す触媒になる、という。

あくまで答えを導き出すのは当事者同士だけど、罵詈雑言で敵対するのではなく、いがみ合う状況を乗り越えるためにどうしたら今よりももっとよい状況にたどりつけるか?って対話を促す。

ポイントは対立している人たちとは別の第三者、ってところ。

対立している人たち同士ではまともな会話すらできないのだから。。。

で、(複数の人が集まる)組織には当然対立の火種はあるのだから、そう言ったものを解決するどちら側にも与しない存在って必要なのかもなーと。

まぁ、収益を生む部署ではないけど、逆に内部争いという不毛な消耗を防ぐコスト削減にはなるんじゃないかな、と考えればトータルではプラスになるのかも。

まぁ、こんなことを言っている自分も、自分自身が争いの当事者になってしまったら、誰か、メディエーターとして介入してくださいw

そんなことを思ったここ最近。

ではでは、またね。

2018年8月25日土曜日

計画なんてしないほうがいい。でも情熱は必要だ。

新しい事業を考えたりするときに言われる「事業計画をだせ」というセリフ。

何をするためにいくらの投資をして、どれくらいのリターンがあるのか?ということは当然、判断をする人にとっては必要なのは理解できる。

でも、計画自体にどれくらい意味があるか?と言われれば、ほとんどないんじゃないのかな。だって、計画通りになんて進まないもの。だから、本当に必要なのは、計画を実行に移す段階で、常に何が最善なのかを試行錯誤して突き進む覚悟なんだと思う。

自分自身は本当に計画性なんて言葉とは縁がないんだよね。自分の人生のキャリアだって、計画的に考えてやってきたことなんてないし。いつも、ほんのちょっと先・もしくはその瞬間をどうやって生きるか?という近視眼的な考えしかもっていないw

確かに、中学生の頃に「世界を平和にするんだ」ということを人生の野望というか夢を持ったのはそうだけど、それをどう実現するか?なんていつもその場その場でどうしたらいいんだろう?と考えてきたイメージ。さらにいえば、そんなことすら考えていない時もあったw

年代別に何を思っていたかを書き出してみたら、本当に計画性なんて何もない。

中学生:
勉強がキライだから、大学受験はしたくない。だから、付属高に入るぞ!

高校生:
進路の2年目で理系か文系を選ぶ選択が必要になった時に少し悩む。科目としては、数学&理科と、社会&歴史が好きな科目。とはいえ、数学は赤点とったりで残念な感じw 付属というぬるま湯に油断して、勉強していなかったから。当然、勉強しなければ数学は顕著にできなくなる。微分なんて自分の人生で必要になる時なんてないだろ、とナメていたら、数年後に会計士の試験で微分が必要なことを知り、いそいそと高校数学の参考書を買って勉強し直したなw まぁ、悩んだ末に、社会&歴史のほうが好きだなーということで文系コースへgo!

大学生:
そろそろ子供の頃の夢「世界を平和にする!」を思い返しつつ、国際協力の道に進むか、一般の社会で働くかを天秤にかける。何のスキルも持たない新卒で国際協力の世界にいっても自分が使い物にならなかったときに残念すぎる、ということで、まずは資格とって5年は会社で働いて何かできる武器を身につけよう!ということでなんとなく会計士を選ぶ。会計士を選んだのは適当だけど、本気で勉強する。この瞬間は勉強のことしか考えていない。他のことなんて考える余裕は全くなかったw

会計士:
5年働いて会計士の仕事に魅力がなければ、もともとやりたかった国際協力の道に進んでみよう、ということで、とりあえず目の前の仕事をやれるだけやり尽くそう、という変なスイッチが入る。ぐりぐり働くのは楽しかったのもあって、ちょっと長居して6年。でも、やっぱ違うなーということで次の道を本屋さんで考える。国際協力の仕事をするには、大学院卒がまぁまぁの前提条件らしい、ということを会計士をやめる1年ほど前に知り、いそいそとリサーチを始めて、大学院への進学準備を始める。マジで大学院が必須(実際には院卒が多いだけだけど)なんて知らなかったから焦ったw

大学院:
紛争解決学という学問があると知って、まぁ、平和を勉強するなら、こういった学問かなーという軽い気持ちで、1年間の学生生活は楽しいだろうなーとあまり考えずに会計士を退職&留学。学生生活はやっぱり楽しかったw

無職:
大学院を終えて、ふと、やりたい仕事って具体的に何だろ?とプチ路頭に迷うw 特にこれといってやりたい仕事がみつからないので、普通に1年間ちょっと実家で無職生活をダラダラ送るw

NGO:
まぁ、さすがに何もしないのに飽きたので、じゃぁ、とりあえず働いてみるか!ということで日本紛争予防センターといういかにもそれ系な名前のNGOに就職。自分が実現したい平和のイメージって何なんだろ?と同僚と話しながら考えた結果、退職。

開発コンサル:
今の会社、アイ・シー・ネット。最初は、平和構築のイメージがまだ強くて、政府開発援助(ODA)の部署に入る。やっている中で、あれ?ここも違うなーと違和感を覚えた頃に、現在の民間企業の新興国進出が自分のやりたいことに一番イメージがぴったりだ!と気づく。はぁ、長かったな、ここまでw もちろん大事なのはこれからだ。

まぁ、これまで紆余曲折してきたのも意味がないとは思わないけど、ほぼ何も考えていない。開発コンサルなんて仕事があることを知ったのは、NGOの職員を辞めようと思っていたときに始めてどういったことやっている会社なんだろ?と調べ始めたくらい。そもそも入社したときに今の仕事はうちの会社にはなかったしw 計画性なんて言葉と自分はとーっても遠い存在だと思う。

ただ、どこに向かっていきたいのか?というイメージはあったけど。それを実現するために、最善なのはどのアプローチなんだろう?といつも考えている感じ。別に悩んではいないんだよね、あまり考えていないからw

で、新しい事業の立ち上げもこんな感じで、気楽に?とはいっても本気で、やるのがいいんじゃないのかなー、と。

計画したってうまくいくわけないんだから、そこらへんにあまり固執してもいけないんだろうな、と。

新しい事業を立ち上げようとするときには、社内であれ、社外であれ、説得する必要があるから、当然、計画書は作るけど、そんな計画書、自分が信じていないw 作れ!と言われるからもちろん作りましたけど、この計画通りになるなんて1ミリも思っていないですよw と普通に上司にも言っているし。

とはいえ、この事業を実現する意義は信じているので、何としても実現させます、と。結局、計画は役に立たないのだから、何かを始めようとするには、それを成し遂げるんだ、という覚悟というか情熱が必要なんだと思う。計画が役に立たないとわかったとき、自分が何のためにそれをやっているのか?を見出せないと、次の一歩がでないんじゃないかな。

すっごくいいかげんなような計画性のなさと、最後までやり遂げるという情熱、という2つの性格の組み合わせって一見変な感じもするけど、意外とベストマッチなんじゃないかなーと思ったり。

ではでは、またね。


2018年8月16日木曜日

適切なインセンティブの設計

動機付け。これはとても大事だと思う。

メンバーに望むのはどういった姿なのか、それを伝えなければいけない。

それが伝えるだけで、Maxの力を発揮してくれるような人だったら、そんな動機付けとか、ましてやインセンティブの設計なんていらない。

そう、ちゃんと伝えれば、分かるハズ。。。

そんな思い込みをしていた時もあった。

でも、なかなか人は目指す姿を提示されても、それだけでは動けない。

やっぱりインセンティブの設計がとても重要なんだ。

そんなことがようやく分かった気がするここ数年。なかなかこれが実感できるようになるまで時間がかかったw

で、インセンティブってどうやって設計したらいいのだろう?

メンバーに目指して欲しい理想の姿をインセンティブという動機付けにもとづいて設計するのが大事だと思う。

でも、理想の姿って、言葉で漠然と伝えることはできても、漠然としたイメージを伝えるだけじゃ、それこそしっかりとした動機付けにはならない。。。

目指して欲しい理想の姿を、わかりやすく伝えることが重要なんだ。

分かりやすい、ということで言えば、叙述的な形ではなく、数字で表される評価指標とかは分かりやすい。

でも、数字で評価しようと思っても、設計した数字がちゃんと「なって欲しい理想の姿」を表しているとは限らない。

目指して欲しい姿を数字で表そうとして、こういったことに積極的に取り組んで欲しい、というメッセージになるかな?と思って試しに考えたとしても、それがメンバーにどういった形で受け取られるのだろう?

数字による評価は一見すると分かりやすいようで、メッセージがシンプルだから、それを受け取る人の解釈はそれぞれ違ったりする。

つまり、シンプルに明確に表そうと思って設定した数字が、受け取る人によって、まったく違う形で理解されて、設計したのとは全くの別物のインセンティブになってしまうこともある。

これは言葉にも言えることだけど、文字や言葉で表せるから伝えることができる、という錯覚に陥りやすいけど、その文字をどうやって解釈するかは、結局、相手がどう理解するか?に依存している。

望む姿を分かりやすく伝えたくて、数字で設計しても、それを受け取った相手に自分が意図したようなイメージで伝わるとは限らないんだ。

なかなかインセンティブの設計も奥が深い。

まだまだ知らないいろんなことがたくさんあっておもしろい。

ではでは、またね。

2018年8月13日月曜日

自分が絶対に正しいなんてことはほぼない

絶対に自分が正しい、と主張する人

確かになにか自信を持てることがあるのはいいことだと思う

でも、絶対に自分が正しいなんて言い切れることなんてどれくらいあるだろうか?

もちろん、自分がどう思うか、という判断はひとそれぞれ持っていて当然だ。

でも、その価値観を他人にまで押し付けることができる絶対的なものなんてどれくらいあるのだろう?

自分の判断について自信をもってそういうことを言える人は、確かな自分を確立しているのか?

意外とその逆なんじゃないか?

ほんとに自分に自信があれば、意見が違う他人がいることも全然苦痛ではないはず。

自分に自信があるなら、他の人も自信を持って自分とは違う価値観を持っていることがあると知っているはず。

こんなことをいま書いている自分も、こんなことを考えるようになったのは、30を過ぎてしばらくしてから。つまりここ最近w

前は何かに悩んでいる身近な人がいたとしても、なんでそんな風に考えるんだろ?その悩みが自分が悩んだりしないようなことだったりしたら、もっと違う視点というか考え方で生きてみたら楽というか楽しいんじゃないかな、と不思議に思っていた時期が長い。正直。

で、行きついた先が、分かり合えない人をわかろうとするのではなく、自分が波長が合う人たちとしか一緒にいないというシンプルな作戦笑

仕事もプライベートも。

でも、仕事とかでより多くの人を巻き込んでいきたい、と考えるならこの考え方じゃダメだ。そう感じてる。

自分を基準に何かを考えたって、それは自分と似た人しか集まらない。もちろん、それは居心地がいいし、安心感もある。

でも、それじゃ大きくなれない。気がする。。。そもそも自分とドンピシャで波長が合う人なんて少なすぎるw

もっと多くの人たちを巻き込んでいくためには、より多くの人たちにも通じるメッセージというか考え方も取り入れていかなきゃいけないんだ。

自分としては、こういうのって苦手過ぎて笑えるくらいな分野だけど、ここを強化していきたいな。

ではでは、またね。

2018年8月4日土曜日

組織運営のリーダーシップ


組織運営のリーダーシップ

それこそ経営学とかでもいろいろ書かれているエリアの話

でも、いまだに自分としてしっくりくる考え方は見つけられずにいる。

例えば、強い組織を作ることが目的であるとして、
・チームワークを重視した運営をすることが強い組織につながるのか、
・個の力を高めることを重視した結果として強い組織になるのか、
といったことについて。

もちろん個々の人間が戦うのではなく、チームとして組織力を発揮できる方が圧倒的に強いに決まっている。

では、結果として強い組織を作るためにはリーダーは何を為すべきなのか?

チームワークを重視するという言葉の響きは美しい

評価の視点でも、連帯責任というかチーム全体のパフォーマンスを評価の基準にする、という仕組みを導入してみたこともあった。

確かにチームワークとしてはうまく機能したと思う。

でも、それが強いチームを作れたか?と言われたら、自信を持って、自分が強いチームを作り上げられた、とは言えない。

もちろん方向性は正しくとも、自分の力量が足りていなかっただけなのかもしれない。

メリットとしては、チームとしての一体感と同じ目的に突き進むという仲間意識の醸成。

でも他方で、自分が感じたチームのパフォーマンスを優先する組織運営は、結果として、チームに守られているという甘えを生んでしまったというウィークポイントもあると感じている。

個々人のスキルアップにつながっていたのか?という点では、残念ながら弱かったと思っている。連帯責任の元で、個人レベルで努力するという意識が希薄になってしまったというミスを犯してしまったと感じている。

これは自分のチーム運営の視点での反省点。

こういったことを踏まえて、まずは個の能力強化を最優先にした上で、その中でチームとしての一体感というか整合性を保てるような組織運営ができないか、今度は模索してみたいと思う。

個の能力強化に重点をおくデメリットは、組織としての連携に支障がでる可能性があること。

組織運営としてはハードルが高いアプローチかな、とも思うけど、強い個人を育てることから強い組織を作る、といったアプローチに挑戦してみたい。個人個人がバラバラにならないように、同じ目的に向かって進んでいく、という意識を常に持てるようにすることが大事なのかな、と考えたり。

そんなことを思うここ最近。

ではでは、またね。

2018年7月31日火曜日

人を育てる

自分自身だってまだ成長途中だという自覚はありながらも人材育成も進めなきゃいけない。

たぶん、自分自身についてだって、完成形だ!なんて思える日はくるのか?

それって成長がもうない、ということとも思えるからやっぱそんな日なんて来ない方がいいのかもしれない笑

とは言え、やっぱり人を育てるのは大事だ
一緒に戦ってくれる仲間が欲しいのだから

もちろんベースとしてある程度できあがっている人がきてくれるなら嬉しいw
楽だし、それこそ即戦力だし、なにより一緒に考える相談相手が欲しいから

でも、まぁ、そんなことはあまり起きなくて
ある程度のところから始めることが多い

これまでにいろんな人と接してきて、それこそ自分の経験値というか
まだ知らなかった育成の方法とかを知るのはおもしろい

20代の頃は、自分の性格とも相まって、
どストレートの直球しか投げていなかったw

とても態度の悪い新人がいたとして、誰もがその人の面倒を見たくない!
だから、脇坂、面倒みてくれ、的なリクエストにお答えして。

持ち合わせている球は一種類しかないので、ストレートに新人にその人のどういった態度が自分としては気に入らないか、どうやって仕事に取り組むべきと自分は考えているか?をひたすら思ったままの言葉で伝えたり。それも相当きつい言い方で。。。

その人がハートの強い人だったからよかったけど、そうじゃなかったら、トラウマか何かになっていたかもしれないような指導方法。。。

今じゃ、さすがにそのアプローチはとらない。自分もちょっとは学習したからw

ちょっとだけ変化球(それでもほぼストレートなのかもしれないけど)を投げるようになったんじゃないかな?と自分では思ってたり。

あとは、どういった環境とか、仕事だったらその人に合うのかな?
というのを昔より考えるようになったのは進歩なのかな〜と。

その一方で、弱くなったかも、と思えるのは、どういったアプローチが正解なのか
昔よりわからないと思えるようになったこと。

たぶん、昔の仕事だったら、ある意味アプローチが固定されているので、これが正しいと言えるものが自分の中でもそれなりにあったのだろうけど、今の仕事は、何が正しい選択肢なのか、自信を持って言えることなんてないんだよね。

だから、みんなそれぞれ自分が正しい、と思えることを思いっきりすればいいじゃん、と思ってる笑

育成という視点からは、その人のスキルレベルとかはあまり気にならない一方で、何者かに成りたいという意思があるか?はとても大事なポイントだと思う。

自分のおかれた環境について、それは粗探しというか、ダメなことを探せばキリがないけど、それをただただ文句をいってイヤなオーラを周囲に撒き散らすか、その状況を踏まえて、自分はどんなアクションをとるのか?を考えられるか。

ここに人の可能性の大きな違いがあると感じる。

もちろん自分だって、いろいろイヤなことだってあるし、そういったことは口に出して仲間に話すけど、でも、愚痴るだけが目的になっているのと、そこから何かをしようか考えるのって違うと思う。

なんだかんだ見てきた中で、この2つのタイプの人の見分け方は、それなりに分かるようになってきがするw

人を育てるってなかなか大変だけど、結構、好き。
まだまだ苦手だけどw

自分ももっと成長したいな。

そんなことを思いながら。

ではでは、またね。

2018年7月18日水曜日

少しぼ〜っと考えてみる時間

何かを考える時。

自分は、相当?早口でダーっとしゃべるタイプwなので、何かを考える時も会話中に一気に答えをだすように思われている気もするけど、実はけっこう考える時間が必要。

これは仕事を始めた頃から変わってない。

すでに考え方というか思考パターンとして何度もやっていることならその場でこうしたい!という答えはすぐでるけど、初パターンというか、自分自身が想定できていなかった問いだったりすると、まず最初のリアクションは、成り行きを見守る(相手の発言を聞く)感じなんだよね。

で、ちょっとしばらく時間をおいて、それが大事なコトだなと思うような場合は、結構、家に帰ってからもどうしたらいいんだろう?と考えるタイプ笑

何日も考え続けるということは逆に少ないけど、だいたい一晩はどういった方向がいいのかな?と選択肢を何個かのんびりと独りで考える感じ。どうしたらいいんだろ?というか、自分がどうしたいのか?という感じかも。

まぁ、家に帰ってからも考えたい、というテーマがあるということはいいことだ。単純に笑

次の作戦はどうしようか、考えるこの時は好き。

ではでは、またね。

2018年6月30日土曜日

迷走する組織に欠けているもの

組織とかチーム作りに関心を持つようになったのは、会計士を辞めてしばらくしてから。

監査法人にいた頃に、組織づくりと聞いたら、まっさきに頭に浮かんでたのは、会計や財務を中心とする手続きづくりのことだった。

今考える組織づくりは、手続きとかではなく、メンバーのモチベーションをどうやって高めていくか?という点。

監査法人であれば、それこそ組織もチームもすでにがっちりとできあがっていたし、逆にその中のチーム運営の仕方とかに問題があれば、それは人材のマネジメントの仕方が悪いんじゃないか、と思ってた。そこには、組織とかチームを作り上げていく、といった要素の一部しか含まれていない。

その後、経験した組織では、こういった組織づくりの大切さを学ぶには最適なシュチエーションで、なんとなく何をする組織なのか?はメンバーみなイメージを持っていつつも、それがメンバーの個人個人にとって何を意味しているのか?といったのがとても不明確で、かつ、場当たり的な活動をしているように感じられていたんだよね。

で、こういった状況を改善するために、どういったことを自分たちの組織の存在意義として明文化していくか?ということに取り組んだ。これが自分にとっての初めての組織の方向性とかをしっかりと考えるきっかけだった。

経営論でよく言われるビジョンとかミッションって考え方が大事なのだと、その時になって初めてちゃんと心の底から理解できた気がする。会計士の勉強をしていた時にも、試験科目にあるので、経営理論としてこういったビジョンとかミッションは、(テスト用に)言葉で表せばどういったものか?とかそれはなんのためにあるのか?を説明できるようにはなっていたけど、実感として、身を以て感じたのはこのときかな。

いろんな定義の仕方があるけど、自分が思うビジョンとミッションは、
ビジョン:目指すべき世界として、どんな世界を実現したいかを表すもの
ミッション:ビジョンを実現するために、具体的な行動指針として、何をなすべきかを示すもの
という感じ。

組織全体で設定するビジョン&ミッションはもちろん必要だけど、社内に異なった事業領域で活動する組織があるなら、そういった下部組織ごとに会社のビジョン&ミッションに沿ったビジョン&ミッションがあるべきなのだ思う。

会社全体として目指すビジョンは同じでも、事業領域が異なるなら、そのビジョンを実現するためにとるべきアプローチ(ミッション)は違うはず。だって、それぞれ持っている武器が違うのだから。

自分としては、部署とかチームごとにビジョンやミッションを持っていることが自然なことだと思うけど(もちろん組織全体の方向性に一致したものであるという前提条件つきで)、意外なことにこういったものをしっかり明文化しよう、という考え方は少数派なのかもしれない。

だから、組織が迷走する。

あまり大きすぎる組織全体のビジョン&ミッションが、下部組織のレベルでの行動指針として使うには漠然としていて具体的な効力を持たないこともあるんだ。

ビジョン&ミッションがなかったり不明瞭な組織のメンバーは路頭に迷う。だって、自分たちは何を目指して、そのために何をすべきなのか?といった判断指針がないのだから。何をなすべきか?を定めるということは、同時に、うちとしてはこういったことは(できるけど)やらない、ということを明確に定めることでもある。

マネジメントが提示する個別具体的な指示の内容が毎年のようにコロコロ変わる、採用する人材に一貫性がない、メンバーに出す業務指示がいったい何の役に立つのかわからずメンバーが疲弊する、、、

こういった状況に陥っている組織は、メンバーの間で、ビジョン&ミッションがしっかりと共有されていないことが大きな原因なのだと思う。

では、下部組織のレベルでのビジョン&ミッションをちゃんと設定すれば、それで組織はよくなるのだろうか?

何もないカオスな状況からは、だいぶ改善するとは思うけど、もっと自律的な組織として活動していくためには、さらにその下のビジョン&ミッションとして、個人のレベルでの目標設定を各人が持てたらな、と思う。

それはつまり、個人レベルで、
ビジョン:自分はどういった世界を実現したいと思っているのか?
ミッション:ビジョンを実現するために、自分は何をすべきなのか?それは自分が能力的にできることであってもビジョンにつながらない仕事はしない、という判断基準でもある。
といったことを考える必要もあるのかな、と。

組織のビジョン&ミッションは、それを設定することができる立場になければ、すぐには設定できないけど、個人レベルのビジョン&ミッションなら、自分が考えれば設定できるものだから、自分が今所属している組織にビジョンやミッションがない、と嘆いている人がいれば、まずは自分が何をしたいのか?を考えてみるのがオススメ。

このプロセスは、自分ができること(能力)とかをロジカルに考えるのではなくて、自分の心が何をしたいと考えているのか?をひっそりと考えるプロセスなのかな、とも思う。

そんな目標なんて、いま、思いつかないよ。。。

という人も、まぁ、焦らずに。

自分だって、今、個人的に持っているビジョン&ミッションは、時間の経過とともに変わりつつあるものだから。でも、根本的なビジョンは、自分の心がこれをやりたい!と思っていることでもあるから、そこはあまり変わらないw

子供のころに考えていたイメージを、ビジョン&ミッションにあてはめるなら、
ビジョン:平和な世界
ミッション:平和構築(注:手段は不明w)
くらいのイメージしかなかった。だって何も知らないんだから笑

それから20年近くたった今なら、
ビジョン:本気でしっかりと勉強や働く努力をした人が、自分の人生を選択することができる世界(それが自分の思う平和な世界)を実現する
ミッション:新興国でビジネスの立ち上げを通じて、ビジネスに関わる地元の人が安定的な収入が得ることで、自身や子供の将来に希望を持てるようにする
と、かなり変わってきている。

個人レベルの目標なんだから、これはどういった目標を設定するのか?はそれこそ自由だ。一人一人の心が願うことなんだから、それに優劣というかこれはよい夢(目標)で、これは悪い夢(目標)なんてことは、そこにはないのだから。とはいえ、さすがに他人の自由や夢を踏みにじるような夢には賛同できないけど。

自分の仲のよい友達にも、毎日楽しく笑って生きていきたい、と本気で話すひともいる。それもいいじゃん。それを実現するために、何をしていこうか?という指針を持てたら、その人の人生も楽しいはず。

そんなことを思ったここ最近。

こういったことを考えているときは楽しい。

ではでは、またね。

2018年6月19日火曜日

課題解決について思うこと

課題がたくさんある、という状況は自分にとっては楽しい状況。

逆に課題が全然ないとやることがなくてヒマすぎて退屈してしまう。

まぁ、どんな状況でも課題がない、なんてことはほとんどないのだろうけど、やっぱり目の前に課題がたくさん見えている状況が好き。

その課題にどうやってアプローチしていこうかな?と考えるのは楽しい。

でも、目の前に見えている課題だけを解決するだけではいけないこともあると思う。

直近の課題を解決した後、どんな世界を目指しているのか?といったことまで思いを巡らせるようにしたい。

対処療法的なアプローチも即座には必要なのだろうけど、それをした後にどこに向かうのか?といった目指すべき姿というものをいつも持ち続けられるようにしたいな。

もちろん、どこを目指すのか?ということはなかなかいい答えが見つからない。だから悩むし、それが楽しくもあるけど、やっぱり見つけたい。

そんなことを思った今夜。

ではでは、またね。

2018年6月5日火曜日

何も知らないということを知っているか?世界はブラックボックスだらけ

子供のころから世界のどんなところでも生きていけるような人になりたいな、となんとなく思っていた。

それなりに過酷な環境でもいつも通りの精神状態で生きていけてるので、ある意味この目標は達成できているのかな、とも思う。

でも、これは別に、サバイバル的な1人の個体としてどんな環境でも生きていけるようになりたいというものではなく(もちろんできたらカッコいいなwとも思うけど)、集団の中で生きていくことができればそれはそれでいいと思う。

ほんとに1人でぽつんと放り出されたりしたら、まじで何もできない。

会計士とかビジネスプランを考えるのが少し得意、といったスキルなんて、個体として生きていくには何の役にもたたない。それよりも食事(農業・漁業)とか、家を立てる(建築)とか、移動手段を確保する、というのが差し迫った課題になるはずだ。でも、自分は何一つできない笑

まぁ、それはそれで悔やんでいたりなんてしていないし、自分の選択なんだから、いいと思うけど。

つまり、いろんな人がいろんな役割を担ってくれているおかげで、その中で、自分自身も役に立てる部分があるんだ、ということ。知らないことだらけで、逆に知っていることの方が少ないのだと。

で、知らないより知っている方がよい気はする。でも、あらゆることを知っていることにどれくらい価値があるのだろうか?

例えば、自動車。これもほとんど知らない。ガソリン(電気自動車でなければ)を入れてアクセルを踏めば運転できる、それだけ知って入れば十分じゃないのかな?たった1人で自動車を組み立てることができる知識を普通の人は必要としていない。

インターネットやパソコンだってそう。こうやってブログを見てくれている人のうち、どれだけの人が、インターネットやパソコンという仕組みがどうやってゼロから構築されているのか知っているのか。その全てを知っている人なんてほぼいない。

こういった仕組みを知らなければインターネットやパソコンが使えないのか?といったらそうじゃない。大抵の人はそんなこと知らなくったって、普通に使っている。

大事なのは、そいういった仕組みを全部知っていることじゃなくて、それをどう使うか?を考えることなのだと思う。

もちろん、数は少ないけど、その仕組み自体を詳しく知らなければいけないエンジニアと呼ばれる職種の人はいる。でも、そうでなければ、一般の人にとっては、そういった技術やテクノロジーをどうやって活用するか?の方が圧倒的に大事だ。

インターネットやパソコンはあまりに当たり前になりすぎて、みんな気にも止めずにつかっているけど、今は新しい技術と言われるもので謎に満ちた存在であっても、それが当たり前に生活の一部になる日がくるかもしれない。

そうなった時に、その仕組みがどうやって動いているのか?なんてディテールを問う人なんてほぼいないはずだ。そこで問われるのは、その技術をどうやって活用できるのか?を考える力のはずだ。

ほとんどの人は自分も含めて周りの身近な世界すら何も知らないのに、何も知っていないということすら忘れてしまっている人がいる。

別に知らないことが悪いんじゃない。何でも知っているつもりになっているという勘違いが一番やっかいなのかも、と思う。

何も知らなくていいわけじゃない、どこまでは知っているべきで、どこからは知らなくてよいのか、そこを理解していることが大事なんじゃないかな。

そんなことを思う。

ではでは、またね。

2018年6月4日月曜日

理想と現実

理想と現実について

確か、前にこのテーマでブログ書いたことあったなーと思って探してみたらあった、2008年の投稿「Just War 2」に。

なんだか今読み返してみると、文体も違っていて、なんか浮かれているというか軽快?軽い?感じがプチ恥ずかしい笑

まぁ、今から10才も若かったんだから、とあまり気にしないで行こうw

で、文体は今風に直すとして、その時は「理想主義49% & 現実主義51%」が自分の目指すところと考えていたらしい。ほぼ拮抗しているけど、少しだけ現実主義者。

確かに両方が必要だという感覚、それは今も同じ。

現実を語るだけでそこに目指すべき理想がなければつまらないし、逆に理想を語るけれどもそこ至るために現実を踏まえたアプローチがなければその理想は何のためにあるのか?

そう思うと、あんまり変わっていないな。自分w 変わらないことがいいことなのかはケースバイケースだとも思うけど。

でも、ほんの少しだけ変わったとしたら、今は「理想主義6割 &  現実主義4割」なのかな、とも思う。

自分が目指すべき理想とする姿があって、そこに向かうために現実にアプローチしていきたい。そこで原動力となるのは、やっぱり夢、とうか理想がなければつまらない。そして理想は実現するためにある。そう信じて進むのみ!

この傾向がずっと続くならば、最後は理想100%を語るようなおじいちゃんになれたらいいのかな、とも思う。

現実は所詮こんなもんだよ、と冷めた人になるのではなく、世界はもっとよくなる、と理想を語って次の世代に期待をもてるようなおじいちゃんになりたいな。

そんなことを思うここ最近。

ではでは、またね。


2018年5月31日木曜日

ラムとジンとウィスキー:たまにはぼ〜っとしてみる

昔から思うことだけど、自分の仕事の進め方はシングルタスク

パソコンのCPUでいったらシングルコア。昔のパソコンだw

同時並行にたくさんの仕事を処理するのは苦手

どうしても複数のタスクを同時にやらなければいけない時もあるけど、そういった時はちょっとだけ持っているメモリで、溜まっている仕事の優先順位を心に留めながら、やばい順に1個づつこなしていくイメージ。

なので、何かに忙殺されている状態だと、目の前の仕事をこなすだけになっちゃいがちなんだよね。

もちろん、グッと集中して仕事をこなしていく、というのは大事なことだとも思うけど。

でも、たまには意図的に何かに追われていない状態を作るのが自分には必要なんだろうな、って思う。

これといって目の前の仕事に追われていない状態を作れると、この先、自分は何をしていこうかな、ということに多くの関心をさけるようになるから。ほかにすることもないからね笑

最近のいい傾向としては、 半年に一度のサイクルでぼ〜っとする時間を意図的に作れるようになったこと。

ほんとに周りの同僚には、ヒマそうですねとか、遊んでいるように見えますねwとか言われつつ、まぁ、実際に興味があることをパソコンに向かって調べたり、(仕事に関係のありそうな)好きな本を読んでたりしてるからね。まさにその通りなんだけど笑

で、こういった時間があるおかげで、この後、どういったことをしていこうかな、と考えることができていいな、と。

そう言えば、20代の終わりの頃には1年間完全なぷーというか無職だったな、と思い出したり。

意図的にそういった時間を作った訳ではないけど、その時にやりたいことはありつつも、どういった仕事をしたいか?というのが明確になかったんだよね。

だから、働きたいな、というモチベーションもなかった。なので、1年間、ほんとに仕事もせずに、飲みに付き合ってくれる友達を探して飲んでいるだけ、という生活をしていた。

まぁ、その時は、1年以上もぼ〜っとしていた割に、ここでその時間が役に立ったんだ!と誇れるような結論にはたどり着かず、さすがにそろそろ何でもいいから少しでも興味が持てそうな仕事を始めなきゃいけないかも、、、という感じで働き始めることになったんだよね。

なので1年間ぼ〜っとしていたことに意味はあったのか?と言われたら微妙笑

とは言え、たまたまのラッキーな巡り合わせで今の仕事にもつながっているとも思えるので、そう考えれば、まぁ、それも悪くはなかったのかも。

留学してすぐにNGOで働いていて、そのあとに今の会社にすぐに(実際に入社した時よりも1年ほど前に)入ったとしたら、おそらく前のベンチャー支援の部署を作ろう!という話がでる前に今の会社も辞めちゃっていただろうし。

ちょうど、入社して2年目くらいでODAは自分には合わないので辞めようかな、と考えていたタイミングでベンチャー支援の新しい活動が始まったのがほんとにラッキーで、それなら自分がやりたい!ということで今につながっているからね。

なかなか自分の意思で、何も(仕事を)しない期間を意識的に作りだすのは難しいかもしれないけど、結構おすすめです

そんなことをラムとジンとウィスキーを飲みながら思った今夜。

ではでは、またね。

2018年5月27日日曜日

異なる視点の対話

同じテーマを扱っているのに、宗派というか思考回路というかそういった根本的な部分で相容れないグループの存在。

例えば、平和学と戦争学。

どちらも紛争や戦争を研究するし、その目的は平和の実現にあるはず。

個人的には、戦争学は平和を実現する手段として戦争(武力の行使)に積極的とも言える気もする一方で、平和学は戦争や暴力そのものを否定することで平和を実現しようとしているとも言えると思う。

とはいえ、どちらも目指している先は、平和の実現だったりする。このテーマについてはこちらのブログを見てね:戦争学と平和学

だけど、この両者、超絶仲が悪い。それこそ根本的な宗派というか思想で相容れない。まぁ、なんとなく伝わると思うけど。

で、ちょっと残念だなーと思うのは、自分が平和学をやっていた時に、確かにちらっとは戦争学っぽい考え方についても触れたけど、自分の記憶では、Just War Theory(正義の戦争に関する理論)といういかにも平和学が否定しそうな正義の戦争といえる戦争があるのか?というディスカッションのためのいわゆるサンドバック役としてでてきたんだよね。

平和学の中でいろんな議論はあるけど、そもそも同じジャンルを扱っているはずの戦争学の視点から、彼らが思いっきり平和学的なアプローチを否定している部分については、扱っていないと思うんだよね(カリキュラムの中から、自分が見落としているだけかもしれないけど)

それは、国連とかNGOによる紛争への中途半端(もっとストレートに非難も込めて“偽善的な”と書かれることも)な介入が、結果としてより深刻な暴力的な紛争のきっかけにしかなっていない、という平和学的な介入を信念とする人たちにとっては耳が痛い指摘。

聞きたくない批判には目を背けて仲間内で議論しているだけじゃ、それこそ平和について研究する様々な分野の知見を活用した平和の実現なんてできないんじゃないのかな?

なんとなくそんなことを思う。もちろん、自分自身としては、平和学の方が自分の思考には近いと感じるし、そういった戦争学の批判もある部分ではあっているけど、視点を変えたらやっぱりそれは違う、とも言えると思うし。

これって同じことが新興国や開発途上国への援助(ODA)と民間企業の取り組みについても言えると思うんだよね。

自分はたまたま両方の仕事をする機会があって、個人的に感じてるのはこの2つのアプローチも相当に宗派というか根本的な思想が違う集団で構成されているなーということ。

どちらも世界をよりよくしたいとか、新興国の人たちの生活をよりよくしたい、というような同じ目的のために活動していると思うんだけど、なかなか同じ視点で物事を考えたり、同じ言葉で会話することが難しい。

でも、だからといって、バラバラにやっていくよりも、やっぱりお互いの意図というか考え方に違いを認めて、それでも建設的な対話をしていこう、という風にできたらいいな。

そんなことを思ったここ最近。

ではでは、またね。

2018年5月25日金曜日

状況の変化とコミュニケーションのタイミング

同じ景色を見ているのに、この先は危険につながっていると感じるタイミングは人それぞれ。

どんな人も目の前に危険が迫る or 危険の真っ只中におかれれば大抵は、あ、やばい、と気づくけど。

で、やばい状況が近づきつつあるか?をなるべく早く察知するのって大事だと思うけど、これって自分だけが気づいても周りが理解していない時ってなかなか難しい。

やばい状況が迫ってるのだから、当然(何も問題意識を持っていないメンバーも巻き込んで)今までのフォーメーションやアプローチを変えて対応するのが最善と考えていたけど、これってとても疲れる。。。

メンバーからすれば、そんなことする必要がないのに強制的にやりかたを変えさせられる、という不満もたまるし。だって何もする必要なんて感じていないのだから、そんなことをする意味が説明してもなかなか伝わらない。

同じ景色を見ていても、それをどう捉えるかは人によって全然違うんだ。

逆に、すっごくダメな気もするけど、あ、このまま進むと地獄を見るな、と数ヶ月とかそれなりに前に感じたとして、ある意味、ほとんどみんながそれを自覚するまでほっといて、危機感が蔓延した頃に、じゃぁ、こうしよ!と話しかける方がよっぽど楽。

本人たちも地獄をちょっと味わったはずでそんなのイヤだとは思うし事前に回避できるなら回避した方がよくない?とも思うけど、逆に、そういった危機感を自覚していないと、たぶん、人に何を言われても実感として納得して行動できないってのもあるんだろうな。

致命傷にならないくらいのやばさなら、あえて放っておくというのも一つの方法かも。そんなことを思う。

なので、同じ景色を見ていて、同じような感度で危機感というかやばさを感じれる人はいい。意思統一までに無駄がないのでアクションもはやく取れるし。

そして、自分が常に絶対に最初に気づくなんてわけはないから、誰かが自分よりも先に何か異変に気づいたら、そういった人の言葉に耳を傾けることができる心のあり方でいたいな。

そんなことを思ったり。

ではでは、またね。

2018年5月16日水曜日

可能性を信じて疑わないことの難しさと強さ

むかし読んだ本の話。

自分は、読んだ本の内容を覚えていることは少ないんだけど、この本は今でもたまに思いだす。

覚えているのは、開発途上国とかで「子どもを学校に通わせるのをやめよう」と親が判断するきっかけに関する記述。

開発途上国とか貧しい家庭では、子どもがある程度の年齢(とはいっても小学生くらい)になると、労働力とも考えられるようになって、そういった時に親がこの子をこのまま学校にかよわせ続けるか?を考えるタイミングがくるのだと。

で、その時点で、自分の子どもが、周りの子どもと比べて勉強ができない(それは学校の成績から、”その時点で”、自分の子が勉強ができるのか?は分かる)と、あ、この子には勉強をさせても将来の見込みがないから、学校に通わせるのは無駄だから働いてもらうことにしよう、となるケースも多いらしい。

ポイントとしては、勉強ができるようになることが子どもの将来にとってよいことだ、という認識を持っていても、こういった迷いというか判断をする親が多いのだと。例えば、その子よりももっと勉強のできる兄弟がいれば、この子は学校には通わせられないけど、他の勉強のできる子はできるだけ学校に行かせてあげよう、と考えるらしい。

これが自分の心に残っている理由は、自分が小学生の時にほんとに勉強ができなかったという衝撃(笑)

ほんとに小学校低学年の頃は、「よくできる」、「ふつう」、「がんばりましょう」の3段階評価で、ほぼ一列に「がんばりましょう」が並んでいたのだから。で、ちょっとだけよい項目にわずかばかりに「ふつう」がある程度。

小学生ながらに、先生はなんて残酷な成績表を(こんな小さな子どもの)自分につけるもんだw、と思ったのを覚えているくらい。こういったことを思うメンタリティは今と変わってないかもw

そう、こういった小学生だった自分からすれば、自分の親が冒頭の途上国の親と同じような環境だったら、自分は小学校を卒業させてもらえなかったんだろうなーと思ったんだよね。

でも、ラッキーなことに、自分の親は、小学校の頃の成績が壊滅的であっても、学校に通わせることを諦めたりせずに、根気強く学校の勉強を頑張ってほしいな、といい続けてたんだよね。まぁ、親に言われたから勉強したくなったわけじゃないのだけど、でも、自分の子どもの可能性を諦めなかったというのは、ラッキーだったな、と。

この時に読んだ本の著者も書いていたんだけど、途上国では親が自分の子どもの可能性を諦めてしまうケースがあるけど、教育制度が整っている国では、ほとんどの親は「義務教育の水準であれば子どもはみな達成できる」と信じて疑っていないことの力が大きいのだと。

ここまでのラインは、みんなが達成できる、と信じて疑わないこと。その力は大きい。

前に自分が平和学とか世界平和に関心を持ったきっかけ(海賊ライフのインタビューをよかったらみてね:「世界を平和にする!」を貫く海賊は、 計画性があるようでない、行動しながら考える人)と似ていて、そういった環境にいたら自分みたいに、中学生とかになるくらいまでとかあともう少しだけ辛抱してくれたら勉強ができる子になる可能性があるのに、その可能性が閉ざされている人たちもいるんだなーと心に響いたのを今もたまに思いだす。

そんな人たちが学校で教育を受けて能力を発揮できるようにできたらステキだな、と。

また、がんばろ、っと。

ではでは、またね。




2018年5月15日火曜日

意志を持った人が好きだ

最近、改めて思う。

自分が何をやりたいのか?それを実現するために意志を持って進んでいこうとする人が好きだ、と。

誰かがやってくれるかも、と期待するんじゃなくて、誰もやってくれなそうなら諦めるのではなくて、自分で進んでいこうとするところから、やっぱり道は開けるんじゃないかな、って。

何もかもが思い通りに進むなんてほぼないわけだし。むしろ、計画通りに進まないことの方が多い。

そんな世界で、何かを突き抜けるには意志が必要なんだ。

そういった人たちと話している時はとても楽しい。そんな仲間を増やしていきたいな。

ではでは、またね。

2018年5月3日木曜日

違和感、なんだこれは?

既成観念ではなく、自分の心が感じたものを信じよう。
そう改めて思った今回のバングラの農村での調査。

今回、バングラでの聞き取り調査は、ひさびさのフィールドでとても楽しかった。でも、正直、かなり怒りを覚えたのも事実。

別に、自分自身や、自分の仲間がイヤな目にあった訳ではない。インタビューをして感じた彼らの置かれている状況に腹が立った。

バングラは、マイクロファイナスが有名。ここでのマイクロファイナスは、貧しくて誰もお金を貸してくれる人がいなかった状況で、連帯責任や回収の仕組みをつくって、貧しい人でも融資を受けられるようにした画期的な仕組みだと言われている。実際に有名なグラミン銀行の創始者のユヌスさんはノーベル平和賞ももらってたりする。

でも、ほんとにそんなに諸手をあげて賞賛するような仕組みなのか?年利20〜30%で連帯責任を課して融資を回収する仕組みなんて、日本でいったらちょっと前に問題になったサラ金のような高利貸しと変わらなくない?

5年くらい前に、ナイジェリアで金融調査をした時も、マクロファイナスを何箇所か訪問して聞き取りをしたけど、インタビューに応じてくれたマイクロファイナスのおっちゃんは、まさにごりごりの貸金業!というような印象だった。

今回は、マイクロファイナスへのインタビューではなく、実際にお金を借りている農村の住民へのインタビュー。

マイクロファイナンスの高利を正当化する一つの理由は、誰もお金を貸してくれない貧困層でも、マイクロファイナスからお金を借りてビジネスをすることで、貧困からの脱却を手助けできる、という考え方がある。

で、実際に聞いてみた。

わき「マイクロファイナスからの融資は、何に使ってるの?」

ほとんどの人の回答は「生活費に使っている」というもの。

わき「なんで生活費が必要なの?」

回答者「いや、だって雨季になったら村で仕事がなくなるから、生活費がなくなるんだよね。で、借金して乾季になったら働いて返すんだ。」

わき「なんで貯金しないの?」

回答者「いや、生活が苦しくて貯金なんてする余裕ないよ。」

これっておかしくない?

確かに彼らは貧しい。実際に今回訪問した村は、バングラデシュの中でも貧しいと言われるエリアを選んでいるので。

でも、貯金する余裕はないけど、年利20%とかの融資を月収の3〜4ヶ月分を前借りして、金利と元本の返済を数ヶ月の融資期間で完了しているんだよね?

お金が全く回っていない訳ではない。

この回答を聞いた時に自分が感じたのは、”搾取の構造”

インタビューをしている貧しい人たちが、高利の借金を必要とする環境を作り上げることで、マイクロファイナンス自身が存続する仕組みを作っているんじゃないか、と。

もちろん、インタビューに協力してくれた人たちはそんなことは感じていないのかもしれない。むしろ、マイクロファイナスがあって助かっていると思っているかもしれない。

でも、この仕組みは健全ではないと感じる。

目指すべきは借金なんてしなくてもよい状況、特に毎年やってくる雨季に備える手段、をつくらなければいけないと思う。

雨季になったら仕事がなくなることはわかっているなら、その時に備えて貯金できるようにサポートするべきだ。そうすれば、借金の金利を払うんじゃなくて、額は少ないかもしれないけど預金の利息だってもらえるし。

それに、そもそも借り手が事業に投資しているとしても、自分が年利20〜30%の融資を受けてバングラでビジネスをしたとして、借金を返した上で儲けをだすようなことってできるだろうか?それも元手なんて何千万とか何億円なんて単位じゃなくて、せいぜい5万円の元手で。無理でしょw

なので、もともとマイクロファイナスにはあまり好意的でなかったけど、今回の調査で訪れた村のようなマイクロファイナスに代わる仕組みを作りたい!と思った。

もちろん、貧しい人が本当に生活に困った時にお金を借りることができる、というセーフティネットとしてのマイクロファイナスの役割は必要だと思う。

でも、常にセーフティネットに依存する仕組みになってしまっては、人の努力するという可能性まで閉ざしてしまう。

そう、よく言われる援助があることで、援助を受けることを当然のことと思ってしまっている開発途上国の発展が阻害されている、という考えにも近いものを感じる。

自分も援助が全部いらないなんて思わない。災害や紛争で緊急に誰かが支援しなければいけない状況だってあるし、そういった場合には援助をすべきだと思う。でも、援助があることで、人をダメにしてしまっては、なんのための援助なのかとも思う。

今回の調査はそんなことを改めて感じたし、現状を変えなければ!と、闘志が湧いてきた調査だった。

そんな感じ。

ではでは、またね。

2018年3月27日火曜日

権限と責任

権限と責任のバランスが取れていることが大事

よく聞くセリフだし、自分もそうだと思う。でも、この権限と責任ってどうやったら正しく配分できるのだろう?

責任者は責任をとるためにいるんだ、ってセリフもよく聞くし、ほんとにそうだと思う。責任をとらない責任者なんて周りからしたら迷惑なだけだ。

これを当然のこととして責任者になったら責任を誰もが取るようになるのだろうか?そういう人もいれば、そうじゃない人もいる。

でも、そういう人をなんで責任者にしてしまうのだろう?そういうミスは自分も含めて多い気がする。

そんなことを考えていて、あ、そうかも?!と閃いた笑

たぶん、自分の場合は、責任者を選ぶときについその人の能力に注目して選んでしまっているんだろう。まぁ、責任者にするんだから、責任は当然とるよねって勘違いをしていたのだと思う。

でも、責任者に欲しいのは、最後までやり遂げるという意思なんだ。自分の場合。つまり、責任者を選ぶ基準は、本人の覚悟が大事なのだと思う。

覚悟だけがあってもその仕事を遂行できなければそもそも前に進めない。その業務を遂行する能力の部分が、権限で与えるべきところなんじゃないかな。

権限と責任のバランスをどうとったらいいのか、と考えてきたけど、ちょっと次はアプローチを変えてみよう。

覚悟があって、能力がある人、その人に責任者として権限もしっかりと委ねる。それがいいのかも。

そんなことを思ったここ最近のできごと。

こういう今までに考えたことがなかったことを思いついた時は楽しい。

ではでは、またね。

2018年3月14日水曜日

ネットワーク型組織の人材育成

個人が自由にその時々で組む相手を選んで、
もっとも成果をだすのに適したチームが流動的に作られる。

そんなのがネットワーク型の組織のイメージ。

自由に心の向くまま仕事をしたい派の自分にとっては、そんな組織がある意味、理想的型の一つなんだと思う。

実際に、現状、とっても仕事をしやすい。

何をするか指示されることもなく、
自分がやりたいように仕事を選べる今の状況はとても好き笑

でも、ネットワーク型のセルにあたる個人は、
自分で仕事をどうやって組み立てていくか考えて、
自分の意思で行動していかなければいけない。

誰かに指示を受けて、その下請けをしているような人は
ネットワークの中に埋もれてしまう、
というか自分の意思では誰とも組めない。

そう、自分が思うネットワーク型組織は、
ある程度、自立した個人を前提にしている仕組みなんだ。

でも、実際には、自立というか自分で勝手に仕事を組み立てていくことができるメンバーだけではない。そこにたどり着くには誰だって、訓練というか経験を積む時間が必要だ。

全く経験がない状態で、突然、ネットワーク型の組織に放り込まれたら?

たぶん、路頭に迷うだろう。ほんとに。

誰しもが、独立したセルとして活動できる状態を理想としつつも、
組織の中で人材を育てていかなければならない。

どういうアプローチが自分たちの目指す先の正解なのか分からない状態では、個人個人がアプローチを立案して実践していくネットワーク型はよい選択肢だと思う。

でもね、人も育てないと。組織は強くならない。

そう思うと、ネットワーク型の独立した各セルの下に、小さな5人くらいの人材育成を目的とした階層構造(ピラミッド)のチームを作る、というアプローチってどうかな?

仕事を進める単位でも構わないけど、
別に仕事を一緒にすることがなくても構わない気がする。

ただ、新しく入ったメンバーや、経験の浅いメンバーを育てる仕組み。

そして、育った人は、ネットワークの中の新しいセルとなって、その人の元にも人材育成のピラミッド型チームが構成されれば、上下の厚みと、自由な人材の組み合わせ、という両方の機能を持った組織ができるんじゃないかな。

外からの新しい人に期待するんじゃなくて、既存のメンバーにできるだけ、長く、そしてやりがいを持って仕事をしてもらいたい。

そんなことを思うここ最近。

ではでは、またね。

2018年2月16日金曜日

Either with us or against us?

Either with us or against us?
<味方か敵のどちらだ?>

これはブッシュが911の後に語った言葉として有名なフレーズの一部。文章としては:

You're either with us or against us in the fight against terror.
<テロとの戦いにおいて、世界には私たちの味方か敵のどちらしかいない。>

訳せばこんな感じだろう。

世界を敵味方にシンプルに区分する考え方は、とても分かりやすくて伝わりやすい。

でも、私たちが生きている世界は、そんなにも単純なのだろうか?

この世界はそんな単純なものではないと思う。もっと境目がはっきりしない曖昧な移ろいゆく世界のはずだ。

例えば、今日は味方だとしても、状況が変われば、敵とまではいかないまでも競争相手になったり、この瞬間は意見が合わない相手であっても、状況が変われば、仲間になることだってあるはずだ。

もちろん、その状況が変わって、スタンスが変わるということが、言ってしまえばお金とかそういったものにつられて、仲間になったり敵になったりするような人は信用できないし自分はキライだ。

でも、その人が信じる価値観というか信念のような部分で共感できる人であれば、ある時、意見や考え方が合わないことがあったとしても、それがお互いの関係において、永続的な分断にはならないと思う。というか、ならないようにしたい。

自分の心のあり方をしっかりと理解して他の人と向き合う。そんなことの大切さを教えてくれた先輩を久々に思い出して。

ではでは、またね。

2018年2月14日水曜日

満たされた世界で何を思う

数年前には聞いたこともなかった技術がどんどん製品化され、身の回りに広がっている。

自分が子どもの頃に比べたら、やはり便利になっていると思う。

そんな中で、今の感覚からすると、想像できる最上限に便利な世界ができたら、どうなるのだろう?

例えば、ほとんどの人は大人になると働く。それが普通。

でも、機械というか自動化がもっともっと進んで、しかもそう遠くない近い未来なのかもしれない時期に、人が働かなくても、衣食住が満たされる世界がきたらどうなるのだろう?

年明け、そんなことを飲みながら話していた。

衣食住が満たされれば、生きていくことはできる。でも、そうなった時、人は何を望むのだろう?

生きるために働いているんだ、という人は何をしたいと思うのだろう?

それは自分にも言えること。世の中の人がみんなある意味、普通に生活することができるようになった時に、自分は何をしたいと願うのだろう?

ひどく平準化された世界がやってくるのだろうか。

でも、それでは退屈すぎる。

何をするのかは分からないけど、そういう世界になったとしても、周りの人と同じようなことをやっているのはイヤだ、と思うはずだ。

前に海賊ライフでインタビューを受けた時に、インタビュアーの方から、なんで脇坂さんは他の人とは違うことをしたい、と思うようになったのでしょうね?と聞かれた。確かに、子どもの頃、中学生くらいの頃には、他の人がやっていたり想像できるような仕事というか生き方は、なんとなく興味ないな、と考えていたのは覚えている。

特に根拠はないけど、自分ならやれる、という感覚笑

そんな、今の世界からすると夢みたいな世界がやってきた時に自分は何を思うのか、ちょっと知ってみたいとも思う。その世界になる前でも、そういう世界がきたと仮定して、自分が何を思うのかを想像してみるのも楽しい。

今のところ、何をしたいと思うのかは見えていないけどね。

なんとなく、去年の夏頃に、もし、自分が自由に何かを勉強できるとしたら、何を選ぶかな、と考えた時に、哲学とかを専攻してみたいな、と思ったのを思いだした。今のところ予定はないけど、10年に一度くらいは、興味のある分野を勉強してみるのも楽しいかなとも思う。

そんなことを思った今夜。

ではでは、またね。

2018年2月10日土曜日

気にしない作戦

明日は、うちの会社でやっている「40億人のためのビジネスアイデアコンテスト」のファイナル。

今年で5回目。

初めて立ち上げた時は、2回目があるかどうかはわからない状態だったけど、今年もイベントが続いていると思うと始めてよかったな、とひっそり思う。

ここ2年は運営にも関与していなくて、今のチームが全部運営しているんだけどね。まぁ、いつまでも当初からやっていた自分が口出しするのはどうかな、というか、まぁ、新しいメンバーがやりたいようにやって、今までよりももっとよいものができるといいな、と。

ふと思ったのが、新しい取り組みを始める時にどうやって活動を軌道に乗せていくか?という時に、自分はかなりいいかげんだなーというかてきとー笑

これをやります!と決めた時に、周囲にいる人はざっくりとこんな感じ:
・一緒にやろうという賛成派
・それはダメだという否定派
・賛成でも否定でもない態度を決めていない人たち

こういう時って、否定派の人たちって、声も大きいしいろいろ言ってくるから、気にはなる存在だと思うけど、どこに力を割くべきか?と考えたら、この否定派を説得することではないと思うんだよね。

賛成派は大事にしなければいけないけど、仲間というか、自分がやりやすい環境を整えていく、という目的からは、アプローチしなきゃいけないのは、態度を決めていない人たち。ここに自分たちの力を割くのが大事だと思う。

否定派の説得なんて、時間もかかる割に、そもそもネガティブなんだから、言ってしまえばここに時間を割くなんて、まさに時間の無駄。

態度を決めていない人なら、嫌だという可能性もあるけど、いいね、と言ってくれる可能性もあるわけだから。

何かを始めようとする時、声の大きな反対派に気をとられるのではなく、どうやったらより多くの人を巻き込んでいけるか、というアプローチがいいと思う。

だから、気にしない作戦。

文句を言っているのに気づいていないわけじゃないよ。

自分の時間がもったいないから、あえて、無視しているだけだよ。

他に時間を費やす価値のあることがあるのだから。

そんな感じ。

ではでは、またね。

2018年2月5日月曜日

海賊になろう!

海賊を増やそう!

という魅力的な言葉に誘われて

自分の心に素直に生きて行く人がもっと増えたら面白いよね、と

「海賊ライフ」の江尻さんと対談形式で、人生初、自分自身についてインタビューしていただきました 。

子供のころから今までの人生をぎゅっと振り返る中で、久しぶりに思い出すこともあったり、とても楽しい時間でした!

そんな海賊図鑑はこちら:
https://piratelife.jp/2018/02/05/zukan_001/

2018年1月28日日曜日

夢 〜人生のモチベーション〜

今回のテーマは「夢」!

自分のダイレクトな夢としては、「世界が平和になるような仕事がしたい」というのが一番。

今回は「夢」を、「自分がどうやって生きていきたいか」という意味でとって今回のブログをお送りします。

自分が大事にしていきたいと考えていることをシンプルにあらわすと、「自分がやりたいと思えることをやって生きていきたい」と。まぁ、これは結局「世界が平和になるような仕事をしたい」とも言える笑

そして、最期、限りある自分の命が終わる時に「あぁ、自分の人生、自分が生きたいように生きてこれて満足だ!」と思えるようにしたい。

でも、自分が思っている以上に、自分がやりたいことをやっている人って少ない気がするのが正直な感想。

例えば、たまに大学生の進路相談イベントに、政府開発援助(ODA)とか新興国とビジネスで関わる仕事をしている人、として参加させてもらう時に、参加者の大学生から「いままでOBやOGに就活にあたってたくさん進路相談をしてきたけど、脇坂さんのように楽しそうに仕事をしている人は初めて会いました。」と言われて、嬉しい反面、みんなそんなにつまらそうに仕事しているの?と残念な気持ちも。その大学生の言っているOBやOGは、聞いたら年齢も20代の若い人たちなのに。

やりたいことを仕事にしていく、というのは簡単ではないとも思う。そのためには、やりたいことを見つけること、そして自分がそれをできるだけのスキルを身につけていること、の2点は必要だと思う。

もちろん、早い段階でやりたいことが見つかれば、それはそれでラッキーだ。ただ、あまりに現実的に自分を見つめすぎて、今の自分にできること、をベースに夢を下方修正とか手の届く範囲に収めてしまうことをしないように頑張り続けられればいいのかな、と。

自分も含めて大抵の経験もスキルも無い若い人のできることなんてたかがしれている。そんな時に自分のその時点のキャパに収まるこじんまりとしたものを夢にしてしまってはつまらないと思うんだよね。

自分にできることをベースにしていたら、中学生の頃から現在に到るまで「世界平和」なんて言っていたら頭おかしい人になってしまう笑 これは、将来、それができるようになるんだ、という自分自身への宣言のようなものだ。

そして、自分を振り返ってみても、ほんとにやりたいことを仕事にできてるな、と感じ始めたのは30代半ばに差し掛かった頃から。

それまでは、やりたいこと(世界が平和になる仕事をしたい)は持っていたけど、それが自分のやっていることとは直結はしているという感覚は弱かった。

でも、そこに到るまでの過程も無駄ではないと思うんだよね。

自分がやりたいことが見えない、やりたいことが決まっていても何をすればよいのか分からない、といったこともたくさんあると思う。

そういう時には、自分のモチベーションをどう持っていくか?が大事だと思う。

子供の頃は可能性は無限にあって、大人になるにしたがって可能性は狭まっていく、という言葉。半分あっているけど、半分は間違っていると思う。

子供の頃は確かにどこに向かっていくか?という点では可能性は広いと思う。でも、大人になったからと言って可能性が狭まるかどうかは本人次第だと思う。それまでの人生の中で積み上げてきた経験やスキルというものを活かせるようにしているなら、自分が目指している方向がある程度見えているのであれば、子供の頃には手に入れられなかった可能性を、大人の自分の方が持っていると思う。子供の頃はあまりに曖昧すぎて、方向性が定まっていないのだ。ただ、時間だけはたっぷりとあるから、自由に方向を決めることもできる点が違うのかな、と。大人になれば、子供の頃には見えなかったものが経験とともに見えるようになってさらに先の可能性が広がっていると思う。

10年以上前になるけど、監査法人で、新人の訓練係をしていた頃に、(仕事の意味が見出せずに)よく道に迷った新人に「新人として配属された今の仕事がやりたいことだと思えなくても、何も考えずにがむしゃらに3年間は本気で仕事してみろ。それで、やっぱり違うと思うのだったら転属でも辞めるでも選べばいい。何も知らないたった数ヶ月か1年しか働いていなくて大した経験もないのに判断なんてするな。」と、まぁ、厳しめな指導というかアドバイスをしていた。この頃、一部のスタッフからは、鬼軍曹なんてあだ名で呼ばれてたな、と思い出したり笑

でも、やりたいことが見えていない人にとっては、将来、自分が本当にやりたいことが見つかった時にそれを選べるようにするために、自分のスキルを高める努力は大事だと思う。一番切ないのは、やりたいことが見つかっても、その時に自分がそれを選択することができない、ということ。

まぁ、やりたいと思えば大抵のことはできると思うけど、近道は自分の基礎的なスキルや経験を磨いておくことだと思うんだよね。

自分が仕事を始めた頃よりもインターネットがさらに普及して、今はいろんな仕事の情報も手に入るけど、特に仕事をし始めた若い人におすすめは「最初の会社で少なくとも3年、できれば5年は本気で仕事をしてみる」ことだと思う。中途半端にころころ転職を繰り返しても、結局自分のスキルは上がらないから、無駄に年を取ることになると思うんだよね。特に新人の頃なんて、初めての仕事なわけだから、学ぶことはたくさんあると思うし。

なんだろ、自分が思うのは、逃げ癖というか、辛いことがあったら、投げ出してしまう変な癖がついたら勿体無いな、と。まぁ、本当にどうしようもなく辞めたいのであれば、次の転職先では絶対に3年は辞めない、という覚悟はあった方がいいと思う。

まぁ、自分が最初のキャリアで恵まれてたんじゃない?と思う人もいるのかな。でも、半分あっていて、半分間違っていると思う。新人の離職率1年で半分が辞めて、3年で誰も新人がいなくなるようなチームだった。仕事も年間の稼働率が140%を確か超えていたと思う。つまり年間でならしても常に毎日3時間くらい残業している状態。全く仕事がない暇な時期が2〜3ヶ月あるのに。繁忙期の稼働率は200%近く。もう一人雇えるじゃん!と思ったり。でも、よいことは、直属の上司がいないから、次から次に新しい仕事を担当させてもらえたこと。誰もいない目の前オールグリーン(青信号)じゃん!と笑

まぁ、こんな精神状態だったので、鬼軍曹と呼ばれたのだろう。

最初のテーマに戻ると、やりたいことをやっていきていけるように、自分自身のスキルを高めるというか、自分が年を取っていく中で、年をとったことが無駄にならないように、精一杯、できることを積み上げていって、自分がほんとにやりたいことを見つけた時に、その時により多くの選択肢を自分が選べるようにしたいな、と思ったんだよね。

ある意味、とっても欲ばりな考え方だけど、だって、20代の頃に自分が何を本気で仕事にしていくかなんて選べなかったんだもの笑

やりたいことをやれるように今をしっかりと生きていこう、これは今も変わらない。

2018年1月4日木曜日

極限点 2018

今回は湘南塾の事務局メンバーとして投稿したコラムから。

興味を持っていただけたら、こちらの湘南塾のサイトをご覧ください〜 とてもおもしろいメンバーがコラムを書いたり、月次イベントを開催しています!
http://shonan-juku.com/

では、今回は「極限点」という去年の3月のブログをもとに記事をお届けします。

「極限点」という考え方は、戦争学(エドワード・ルトワック著:戦略論〜戦争と平和の論理〜)の中で出会ったコンセプト。

ざっくりと要約すると、自分たちの能力の限界点(極限点)を超えて攻め込むと、攻めていて劣勢の敵に相対していたはずなのに、気づけば自分たちが不利な状況に陥ってしまう、という感じ。昔ながらの地上戦をイメージして他国に攻めていることを想像すれば、相手の国に深く攻め入れば攻め入るほど、地の利は相手側にあるし、補給線も伸びて不利な状況に陥る、といったイメージ。

これを今の自分が取り組んでいるベンチャーや中小企業の進出支援について当てはめてみたらどういうことなのだろう?と。

限界なんてあると思いたくない一方で、今の自分たちの限界点をちゃんと把握していることも必要なのだと。

それはつまり今の自分たちにできることをしっかりと見つめ直すプロセスとも。

そして去年の春先頃に考えてたのが、ベンチャーや中小企業の新興国展開支援という同じようなサービスを提供している競合、それも自分たちよりももっと世界中にそして組織的に体制が整っている企業たち、を相手に自分たちが価値を提供できる場所はどこなのか、ということ。

そう言った企業に追いつこうと手当たり次第に提供するサービスを広げていこうとしても、それこそ自分たちのリソースを薄く引き伸ばしてしまっては、無理して新たに広げたサービスが成功するなんて思えない。

自分たちは民間企業の新興国展開支援をしているけど、所属しているアイ・シー・ネットという会社は、普通の人にはあまり馴染みがないけど、開発コンサルタントと言われる仕事をメインに成り立ってきた会社。日本政府、例えば、JICAや経産省がやっている開発途上国への政府開発援助(ODA)プロジェクトや、現地政府から発注を受けたプロジェクトを、現地政府と一緒に実施する会社。

極限点を知るということは、自分たち自身をもっとよく分析することが大事。

そうして夏頃に考えた新しい方針(とは言っても自分がひっそりとやっているだけ?かも笑)は、ちゃんと今の自分の組織の力を活かして(競合のコンサル企業と)戦うことだし、そういう他社が提供できないサービスを提供することが自分たちの価値だと。

今の組織が強みを持っているのは、これまで25年近くに渡って、現地政府と一緒に現地の制度設計や、その運用を一緒に作り上げてきたということ。こう言った部分では、同じ開発業界には競合はそれなりにいるけど、普通の民間のコンサル企業にはあまりない特徴。

だったら、自分がやる民間進出支援も、新興国の政府と連携して、(自分のクライアントが必要とする)制度を一緒に作って、その制度が出来上がった後にクライアントが民間企業として現地でサービス提供ができる環境を作ることだろうと。

もちろん、自分のクライアントが新興国でサービスを提供することによって、地元の人たちの生活が今よりももっとよくなるということを一番大切にしたい。

去年の前半頃に抱いていた自分たちの極限点。それが明確になって、また秋頃には新しく自分たちができそうなことがまた一つ加わって、ちょっとづつだけど極限点も広がったかな、と思う。

今年もまたグリグリと前に進んでいきたいな。1年後にはどこまでたどり着けるか楽しみだ。

では、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
また、みなさまにとってステキな一年になりますように。

脇坂
湘南塾 事務局
http://shonan-juku.com/?p=542

2018年1月3日水曜日

仲間のかたち


年が明けて3日。
のんびりとしながら、頭空っぽな感じで過ごしてみて。

いろんなところに行くのが好きだし、トレッキングとかも好きなので、自分のことを結構アウトドア派っぽく思っている人も多いと思う。

でも、結構、インドア派なんだよね。日本であれば家が好きだし、海外にでかけても、これをやるんだ!というのがなければホテルやその周りの近場をフラフラしているのが好き。

さすがに初めて行った国であれば、街中を歩き回るけど。何度も来ている場所だったりすれば、日本にいるのとあまり変わらないのでインドアモード。

もう少しししたらこっちにいる友達にいろいろ会ってみようと思うけど、ここ数日はホテルに引きこもり状態笑

一人でぼーっとしていると時たま考えたりすることがあって、そんな時間は好き。

ここ数日で思ったこと。それは自分が独りだと、思っている以上に怠惰というか、何かをしよう!という気持ちが低いこと。それはそれで好きなんだけど、やっぱり、せっかくなんだから、いろいろ行動してみるのも好きなんだけどなーと思いつつ、特にこれといった理由がないとめんどくさいw

で、こういう時ってやっぱり仲間がいると自分がグリグリと突き進む原動力になるんだろうなー、って改めて思う。

そして、思ったのが、仲間といってもいろんな形があるな、ってこと。

例えば、
・目指す先といった感じで、目標や指針となる人。
・一緒に進んでいく同僚というか、まさに仲間。
・今の自分を支えてくれる人や協力者。
こんな感じにピラミッドのような形を考えてみて思ったこと。

考える前からわかっていたことだけど、自分には目標とする人や、憧れている人といった人はいないんだよね。これは今いないだけでなく、子供の頃から、憧れる人みたいなものは持ったことがない。

その人そのものになりたいというような憧れはないけど、このブログでも何回か書いている「この人みたいに自分の心の向く方向に素直に自由に生きていきたいな」と思った人はいる。その人のことを書いたブログはこちら:
 「世界の中心
その人そのものになりたいというのではなくて、その人みたいな心持ちで生きていきたいな、という感じ。

自分の感覚でちょっとおもしろいな、と思ったのが、ここからの部分。

まず先に、自分を支えてくれている人や協力者という人たちとして浮かんだのが、自分の上司や、自分の周りにいる同僚たちなんだよね。

なんとなく会社にいるんだから、自分の感覚の中で、上司が支えてくれる人、という側にいるのは少しおもしろいな、と。そして、多くの同僚も支えてくれている人が多いな、と。もちろん社外の人たちも、自分がやりたいと思っていることを実現するためにいろんな形で支えてくれている。

そして、自分にとって一番の力になる人は、やっぱり一緒に進んでいく仲間という存在。この部分にくるのは、一緒に事業を立ち上げて行こうとしているクライアントの経営者たち。クライアントというよりは、仲間、という感覚の方が圧倒的に強い。そして、同僚の中でも自分に近い感覚で仕事に突っ込んでいってくれる人も、部下というよりは仲間。自分を支えてくれるというよりも、一緒に突っ込んでいくのだから。

今回の「(自分にはいないけど)目標となる人」、「一緒に進んでいく仲間」、「自分たちを支えてくれる支援者」という3つのなかだと、自分では今まで意識していなかったけど、会社組織の構成とはちょっと違う形になるんだな、って。

会社の組織図をイメージすれば、
目標となる人:上司
一緒に進んでいく仲間:自分にポジション?が近い同僚
自分を支えてくれる支援者:部下
という感じにもいっけん思えるけど、自分の中ではずいぶん違うんだな、と。

これと同じことを自分のチームに考えれば、自分が行きたい方向に一緒に進みたいと言う人は、仲間として一緒に前に進めばいいけど、自分とは違った可能性を探したいという人には、それが実現できるようにサポートをしてあげられるようになりたいな、と。

そんなことを思った年の初め。

ではでは、またね。