2017年12月22日金曜日

精神的な自立、潔さ

今日は、その人がずっと海外で仕事しているので滅多に合わない同僚というか先輩、自分にうまいコーヒー、焙煎を教えてくれたコーヒーの師匠に久々に会えた。

その人はやっぱりいいな、というかかっこいいおっちゃんだな、と思って。

たまたま今朝、その逆?というか自分が苦手なタイプの人のことを思い出してちょっとイヤな気分だったから、なんでこんなに違うんだろ?とコーヒーの師匠と別れた後に考えたんだよね。

もともと人の好き嫌いははっきりしている性格ではあるけど、なんとなく気になって。

で、思ったのが、精神的に自立している大人、が好きなんだろうな、と。

その逆に、苦手な人は、例えば「私を助けろ!」とか「あなたは私を助けて当然なんだ」的なことを言ってくる人。意味がわからない命令をしてくる。

もちろん、貸し借りの帳簿の感覚はあるし、そう言ってくる人にはそんなことを言われるレベルでの借りなんてない。なんならその逆じゃない?と思えるようなくらい。

あとは、なんか条件が良さそうなことがあるとしっぽをフリフリすぐに付いていく人。まぁ、そういう人を好きな人はあまりいないと思うけど笑

こういった人たちを見ると、キライだな、と思うけど、そのキライの先にどんな感情があるのかな?と考えると、前者は残念な気持ちなのかな、と。別にそういう相手に怒りを覚える感じではないんだよね。もちろんちょっとイラっとはするけど笑 なんか残念な感じ、というのが強いかな。

後者の方は、残念さもあるけど、気持ち悪い、もあるな、と。

キライの中にもいろんな感情がその先にあるな、ってのはおもしろい。

そう言った人たちも必死なんだよ、ということもできる。もちろん必死なのはわかるし、そのためになりふり構わない姿でやっているのだとも思うけど、必死な人が全員、そういう姿になる訳ではないじゃん。

必死な人をみて笑うなんて趣味の悪い感覚はないし、必死に頑張っている人はステキだなと思うし。

あ、これも中学の時の先生の影響かも笑

その先生、「必死になって勉強するやつらの姿をみて、かっこ悪いとかダサいとかいうやつなんてカンケーねーだろ。それができねーやつらなんて気にするな!」的なことを言っていた。まぁ、自分はそれほどまじめに勉強していなくて、そのあと、「脇坂、なめてんじゃねーぞ!」と怒られもしたけど笑

朝はそんな人たちがふと頭によぎってイヤな気分だったんだけど、コーヒーの師匠に会って、あ、やっぱ、こういう人好きだ、となれたので、今夜も気持ちよく酒が飲める笑

この人には、たぶん、前にあげた2つのタイプの人たちのような感覚は全然ない。自分のやりたいことは見えていて、それをやるために進んでいきたい、という姿勢。

この師匠に限らず、好きなタイプの人は、自分の意思で決めたことに対する責任というか覚悟があって進んでいる人なんだろうな、と。

それは依存なんてなくて、自立した姿なのだと。

で、それを他の人が見ると、潔いと呼ぶのかもしれない。

もちろん、自分にしたって誰だって、たった一人でなんでもやって生きている訳ではないから完全な自立なんてない。

でも、精神的に自立している人ってのは美しいというかかっこいいな、と思う。

そんな大人が好きだ。

ではでは、またね。

2017年12月20日水曜日

独裁者と引き際

独裁という言葉の響きは悪い。

独裁が弾圧や虐殺を指すのであれば、もちろん、そんなの自分も受け入れられない。

その一方で、独裁が「強烈なリーダーシップ」を指すものとして考えたらどうだろう?

置かれた状況の中で対処すべき課題は無数にあるなかで、優先順位を定めて、それに集中して取り組む、それは強烈なリーダシップでもあるのではないか。

中途半端に意思決定ができず、政策の安定性がない国よりも、独裁者によって一貫した開発計画が実行に移されてきた国の方が経済的に発展することもある。

でも、独裁の弱さもある。

独裁が特定の個人の場合、結局、その個人が認識できる課題、そしてその個人が考えつく対策、それがキャパの限界。個人が全ての意思決定をする以上、その人のキャパを超えた課題には対処できないのだと。

例えば、戦うことにかけて才能を発揮したリーダーがいたとして、敵を打ち倒した先に新しい国家を作り上げていく段階になった時に、そのリーダーは国づくりという局面においても最高のリーダシップを発揮できるだろうか?

開発途上国のリーダーとして、経済成長を最優先事項に掲げて経済成長を達成してきた初期のリーダーが、多様な産業や新しいテクノロジーといったものを取り込んでいかなければ経済成長が難しかったり、国民が経済成長だけでなく政治参加の権利や、自由な言論を望むような局面に達した時、その新しい状況でも最高のリーダシップを発揮し続けられるだろうか?

これは国づくりといった大きなテーマだけでなく、ビジネスの組織運営といったところでも共通すると思う。

過去の困難な状況を乗り越えてきたという自負や自信も手伝ってか、新しい状況になっても、自分がやれる、という錯覚に成功したリーダーが陥りやすいのも、まぁ、人なのでそういうものなのだとも思う。

とても難しいことではあるけど、そういった困難な局面に立ち向かったリーダー達が目指した世界が実現できた時、そのリーダー達がもっとも力を発揮できた過去の状況とは違う状況を作り出したのはリーダー自分自身であるということ。

なので、リーダーには引き際がとても大事なのだと。自分が得意な状況が(目的を達成して)去ってしまった時、その新しい状況で、もっとも力を発揮できる次の人にリーダーの立場を譲ることができること。それが理想のリーダーなのかな、と思う。

すっごく稀に、状況が変われば、その状況の変化に応じてリーダシップのスタイルを変えることができるリーダーもいるのかもしれない。でもそういった人はほんとに少ない気がする。

なので、自分が一番好きな(力を発揮できる)状況を理解して、そこで活躍できれば、それが一番いいのだろう、と思う。

自分が好きなのは、カオスな乱戦状態。この先、どういった状況になるかはわからない状況で戦っていくのが好きな性格。

正直、自分としては、全員の合意のもとに物事を進める、というアプローチには否定的。何が正解かわからないカオスな状況の中で、みんなが満足する、それぞれがやりたいことを、全員の意思を尊重してやっていくなんて効率が悪すぎる。

自分が今この瞬間、最もよいと思うアプローチを考えて、それに突き進んでいくのが好き。アプローチが今ひとつうまくいかないな、と思えば、また、次のアプローチを考えればいいだけのこと。

その一方で、カオスな状況を乗り越えられたら、それは、次に状況を体系立ててシステム化していくことが好きな人に役割を譲ればいいと。

そして、自分は次のカオスなワクワクするフィールドに転戦していけばいいのだと。

そんなカオスな戦いが大好きな人たちとチームを組んでやっていけたら、楽しいだろうな。

ではでは、またね。

2017年12月13日水曜日

世界の中心

今日は久しぶりに中学の頃に好きだった先生の話。

その人は、今の自分の人格というか性格に一番大きな影響を与えた人。

先生の言葉で「世界は俺を中心に周ってる!」と言うのがあって、今でもたまに思い出す。

その先生の「道なんて俺が歩いた後にできるんだ!」って言葉の思い出はこちらのブログ:http://2anotherw0rld.blogspot.jp/2017/07/blog-post.html

普通に生活していて、突然そんなことを言っている人が周りいたら、まぁ、普通は頭が少しおかしいのかな?と思うだろう。

でも、自分がその言葉を聞いた時に思ったのは「確かに。あなたの世界はあなたを中心に周っているけど、自分の世界は自分を中心に周っているのだから、まぁ、そうだよね。」と。

この人、頭おかしい(笑)とならずに、そんな風に思えたのは、たぶん、その先生が自分の意思で生きている、というのを感じていたからだと思う。

自分の生き方は、自分で決めているんだから、当然、その世界は自分を中心に周っている。主人公が自分自身なのだから。

そして思ったのが、自分が主人公なこの人生、ちゃんと自分の意思で考えて決めていきたいな、と。

中学生だった自分は全く気づけなかったけど、たぶん、自分のやりたいことをやって生きていこうとしていたその先生にも葛藤とかいろいろあったんだろうとも思う。でも、流れに流されたり、誰かに決められたことをしているのではない生き方をしているその先生はかっこいいな、と思ったんだよね。

そんなかっこいい大人になりないな、と思ったし、今もそういうかっこいい大人になりたいと思っている。

なので、今でもその人の影響は大きい。教わっていたのは普通に勉強だけど、勉強というよりは、なんだろ、生きていく上での自分の意思の大切さを教わった。

誰かのために自分の命というか人生を捧げる生き方もあると思うし、そういった場合は、自分の世界の中心は他の人になることもあると思う。

それでも、そういった生き方を自分の意思で選ぶなら、それもまたいいことだと思う。

自分も、自分自身じゃない他の人が中心になったこともあったし。それはお互いに、多分どちらかが中心にいるのではなく、お互いに相手の周りをぐるぐると巡っていた状況なのだと思うけど。慣れていないことなので、大変でもあったけどね笑 でも、それはそれで楽しかった。

自分が主役のこの人生、自分の心が動く方向に、自分の意思で進んでいきたいな。

そんなことをふと思い出した。

ではでは、またね。

2017年12月9日土曜日

数字の奥に何が見える?

今日はビジコンで事業計画の作成をしている受講生を対象に、キャッシュフローや投資の収益性の分析方法の基礎を話す機会をもらった、というか(同僚に)強制的に召集させられた笑

別にそんな大した講義をしたわけではなく、本当にすっごく基礎的な考え方と、その数字の意味を考えながら計画を作ることの大切さを伝えたくて、そこに多くの時間を割いた。

数字が持つ意味というか、それがさす本質的なことは何か?ということをしっかりと理解しようとしているのと、単にうわべだけのテクニックでなぞるのって大きな違いだと思うんだよね。

うわべだけのテクニックというのは、最短距離でそれらしい知識を得るにはコスパはいいのだと思うけど、やっぱり本質的な理解ができている人には遠く及ばない。

会計士という仕事がベースにあって企業の進出支援というコンサル(コンサルという仕事の名称は個人的には好きじゃない。だって、コンサルなんて明確な定義もないから、言ったもの勝ちな世界の曖昧なものだから。もちろん、ちゃんと、ほんとにやばいレベルの達人もいるのだけど、でもそうじゃない人も多いから。。。)の仕事をしていると、会計の本質をわかってないなーと思うコンサルにも会うことがあって、そういう時に違和感を感じる。

例えば、コンサルがいう、数字の見せ方が大事です、というアドバイス。

数字の見せ方が大事なのではなくて、数字そのものが何を意味するか?を考えることが大事なんじゃないかなー、と。

そういうコメントって、結局、なんでそういう数字になるのか?という本質的なことの理解よりも、ぱっと見の見た目、なんだったらピンクで装飾するとか、綺麗なフォントを使うとか、というのと同じレベルの話でしかない。

とはいえ、意外と、そういう風に捉える人が多いのであれば、そういったアドバイスも実は意味はあるな、とも思うけど。でも、そう言ったアドバイスしかできないのでは残念だなーとも思う。

個人的には、全然、好きじゃないけど、会計っておもしろいと思うんだよね。この表現、すっごく矛盾してるけど笑

日々の経済活動を数字で表す手段として簿記があって、どうやったら現実の経済活動を数字で表せるか?といった理論的な背景を扱う財務諸表論とか会計学って学問があるんだよね。

その残念な人たちは、たぶん、簿記しか知らない。ただの数字の羅列ぐらいにしか見えていないんじゃないのかな。だから、飾ったり、変な意味を持たせようとしてるのだと。

でも、その数字が作られる理論的な背景も知ってると、もっとおもしろいと思うんだけどね。

とは言っても、自分は簿記も会計学も全然好きじゃない笑

そんなことを考えていたら、すっごく久々に経済学をもう一度勉強してみようかなーという気になってきてる。

実家の自分の部屋の隅っこにあるダンボールの中に昔勉強してた時のファイルが眠ってるはず。

経済学もおもしろい。まぁ、そもそも「人間が合理的な意思決定をする存在である」という前提で数字で考える学問なので、そもそもの前提が間違ってる気もするけど笑

人間なんて非合理的な意思決定をしまくっているではないか笑

でも、人間の行動を数字で表そうと理論的に考えていくその過程はおもしろい。

今度、実家に帰ったら昔の経済学のファイルを探してみよう。

ではでは、またね。