2018年5月31日木曜日

ラムとジンとウィスキー:たまにはぼ〜っとしてみる

昔から思うことだけど、自分の仕事の進め方はシングルタスク

パソコンのCPUでいったらシングルコア。昔のパソコンだw

同時並行にたくさんの仕事を処理するのは苦手

どうしても複数のタスクを同時にやらなければいけない時もあるけど、そういった時はちょっとだけ持っているメモリで、溜まっている仕事の優先順位を心に留めながら、やばい順に1個づつこなしていくイメージ。

なので、何かに忙殺されている状態だと、目の前の仕事をこなすだけになっちゃいがちなんだよね。

もちろん、グッと集中して仕事をこなしていく、というのは大事なことだとも思うけど。

でも、たまには意図的に何かに追われていない状態を作るのが自分には必要なんだろうな、って思う。

これといって目の前の仕事に追われていない状態を作れると、この先、自分は何をしていこうかな、ということに多くの関心をさけるようになるから。ほかにすることもないからね笑

最近のいい傾向としては、 半年に一度のサイクルでぼ〜っとする時間を意図的に作れるようになったこと。

ほんとに周りの同僚には、ヒマそうですねとか、遊んでいるように見えますねwとか言われつつ、まぁ、実際に興味があることをパソコンに向かって調べたり、(仕事に関係のありそうな)好きな本を読んでたりしてるからね。まさにその通りなんだけど笑

で、こういった時間があるおかげで、この後、どういったことをしていこうかな、と考えることができていいな、と。

そう言えば、20代の終わりの頃には1年間完全なぷーというか無職だったな、と思い出したり。

意図的にそういった時間を作った訳ではないけど、その時にやりたいことはありつつも、どういった仕事をしたいか?というのが明確になかったんだよね。

だから、働きたいな、というモチベーションもなかった。なので、1年間、ほんとに仕事もせずに、飲みに付き合ってくれる友達を探して飲んでいるだけ、という生活をしていた。

まぁ、その時は、1年以上もぼ〜っとしていた割に、ここでその時間が役に立ったんだ!と誇れるような結論にはたどり着かず、さすがにそろそろ何でもいいから少しでも興味が持てそうな仕事を始めなきゃいけないかも、、、という感じで働き始めることになったんだよね。

なので1年間ぼ〜っとしていたことに意味はあったのか?と言われたら微妙笑

とは言え、たまたまのラッキーな巡り合わせで今の仕事にもつながっているとも思えるので、そう考えれば、まぁ、それも悪くはなかったのかも。

留学してすぐにNGOで働いていて、そのあとに今の会社にすぐに(実際に入社した時よりも1年ほど前に)入ったとしたら、おそらく前のベンチャー支援の部署を作ろう!という話がでる前に今の会社も辞めちゃっていただろうし。

ちょうど、入社して2年目くらいでODAは自分には合わないので辞めようかな、と考えていたタイミングでベンチャー支援の新しい活動が始まったのがほんとにラッキーで、それなら自分がやりたい!ということで今につながっているからね。

なかなか自分の意思で、何も(仕事を)しない期間を意識的に作りだすのは難しいかもしれないけど、結構おすすめです

そんなことをラムとジンとウィスキーを飲みながら思った今夜。

ではでは、またね。

2018年5月27日日曜日

異なる視点の対話

同じテーマを扱っているのに、宗派というか思考回路というかそういった根本的な部分で相容れないグループの存在。

例えば、平和学と戦争学。

どちらも紛争や戦争を研究するし、その目的は平和の実現にあるはず。

個人的には、戦争学は平和を実現する手段として戦争(武力の行使)に積極的とも言える気もする一方で、平和学は戦争や暴力そのものを否定することで平和を実現しようとしているとも言えると思う。

とはいえ、どちらも目指している先は、平和の実現だったりする。このテーマについてはこちらのブログを見てね:戦争学と平和学

だけど、この両者、超絶仲が悪い。それこそ根本的な宗派というか思想で相容れない。まぁ、なんとなく伝わると思うけど。

で、ちょっと残念だなーと思うのは、自分が平和学をやっていた時に、確かにちらっとは戦争学っぽい考え方についても触れたけど、自分の記憶では、Just War Theory(正義の戦争に関する理論)といういかにも平和学が否定しそうな正義の戦争といえる戦争があるのか?というディスカッションのためのいわゆるサンドバック役としてでてきたんだよね。

平和学の中でいろんな議論はあるけど、そもそも同じジャンルを扱っているはずの戦争学の視点から、彼らが思いっきり平和学的なアプローチを否定している部分については、扱っていないと思うんだよね(カリキュラムの中から、自分が見落としているだけかもしれないけど)

それは、国連とかNGOによる紛争への中途半端(もっとストレートに非難も込めて“偽善的な”と書かれることも)な介入が、結果としてより深刻な暴力的な紛争のきっかけにしかなっていない、という平和学的な介入を信念とする人たちにとっては耳が痛い指摘。

聞きたくない批判には目を背けて仲間内で議論しているだけじゃ、それこそ平和について研究する様々な分野の知見を活用した平和の実現なんてできないんじゃないのかな?

なんとなくそんなことを思う。もちろん、自分自身としては、平和学の方が自分の思考には近いと感じるし、そういった戦争学の批判もある部分ではあっているけど、視点を変えたらやっぱりそれは違う、とも言えると思うし。

これって同じことが新興国や開発途上国への援助(ODA)と民間企業の取り組みについても言えると思うんだよね。

自分はたまたま両方の仕事をする機会があって、個人的に感じてるのはこの2つのアプローチも相当に宗派というか根本的な思想が違う集団で構成されているなーということ。

どちらも世界をよりよくしたいとか、新興国の人たちの生活をよりよくしたい、というような同じ目的のために活動していると思うんだけど、なかなか同じ視点で物事を考えたり、同じ言葉で会話することが難しい。

でも、だからといって、バラバラにやっていくよりも、やっぱりお互いの意図というか考え方に違いを認めて、それでも建設的な対話をしていこう、という風にできたらいいな。

そんなことを思ったここ最近。

ではでは、またね。

2018年5月25日金曜日

状況の変化とコミュニケーションのタイミング

同じ景色を見ているのに、この先は危険につながっていると感じるタイミングは人それぞれ。

どんな人も目の前に危険が迫る or 危険の真っ只中におかれれば大抵は、あ、やばい、と気づくけど。

で、やばい状況が近づきつつあるか?をなるべく早く察知するのって大事だと思うけど、これって自分だけが気づいても周りが理解していない時ってなかなか難しい。

やばい状況が迫ってるのだから、当然(何も問題意識を持っていないメンバーも巻き込んで)今までのフォーメーションやアプローチを変えて対応するのが最善と考えていたけど、これってとても疲れる。。。

メンバーからすれば、そんなことする必要がないのに強制的にやりかたを変えさせられる、という不満もたまるし。だって何もする必要なんて感じていないのだから、そんなことをする意味が説明してもなかなか伝わらない。

同じ景色を見ていても、それをどう捉えるかは人によって全然違うんだ。

逆に、すっごくダメな気もするけど、あ、このまま進むと地獄を見るな、と数ヶ月とかそれなりに前に感じたとして、ある意味、ほとんどみんながそれを自覚するまでほっといて、危機感が蔓延した頃に、じゃぁ、こうしよ!と話しかける方がよっぽど楽。

本人たちも地獄をちょっと味わったはずでそんなのイヤだとは思うし事前に回避できるなら回避した方がよくない?とも思うけど、逆に、そういった危機感を自覚していないと、たぶん、人に何を言われても実感として納得して行動できないってのもあるんだろうな。

致命傷にならないくらいのやばさなら、あえて放っておくというのも一つの方法かも。そんなことを思う。

なので、同じ景色を見ていて、同じような感度で危機感というかやばさを感じれる人はいい。意思統一までに無駄がないのでアクションもはやく取れるし。

そして、自分が常に絶対に最初に気づくなんてわけはないから、誰かが自分よりも先に何か異変に気づいたら、そういった人の言葉に耳を傾けることができる心のあり方でいたいな。

そんなことを思ったり。

ではでは、またね。

2018年5月16日水曜日

可能性を信じて疑わないことの難しさと強さ

むかし読んだ本の話。

自分は、読んだ本の内容を覚えていることは少ないんだけど、この本は今でもたまに思いだす。

覚えているのは、開発途上国とかで「子どもを学校に通わせるのをやめよう」と親が判断するきっかけに関する記述。

開発途上国とか貧しい家庭では、子どもがある程度の年齢(とはいっても小学生くらい)になると、労働力とも考えられるようになって、そういった時に親がこの子をこのまま学校にかよわせ続けるか?を考えるタイミングがくるのだと。

で、その時点で、自分の子どもが、周りの子どもと比べて勉強ができない(それは学校の成績から、”その時点で”、自分の子が勉強ができるのか?は分かる)と、あ、この子には勉強をさせても将来の見込みがないから、学校に通わせるのは無駄だから働いてもらうことにしよう、となるケースも多いらしい。

ポイントとしては、勉強ができるようになることが子どもの将来にとってよいことだ、という認識を持っていても、こういった迷いというか判断をする親が多いのだと。例えば、その子よりももっと勉強のできる兄弟がいれば、この子は学校には通わせられないけど、他の勉強のできる子はできるだけ学校に行かせてあげよう、と考えるらしい。

これが自分の心に残っている理由は、自分が小学生の時にほんとに勉強ができなかったという衝撃(笑)

ほんとに小学校低学年の頃は、「よくできる」、「ふつう」、「がんばりましょう」の3段階評価で、ほぼ一列に「がんばりましょう」が並んでいたのだから。で、ちょっとだけよい項目にわずかばかりに「ふつう」がある程度。

小学生ながらに、先生はなんて残酷な成績表を(こんな小さな子どもの)自分につけるもんだw、と思ったのを覚えているくらい。こういったことを思うメンタリティは今と変わってないかもw

そう、こういった小学生だった自分からすれば、自分の親が冒頭の途上国の親と同じような環境だったら、自分は小学校を卒業させてもらえなかったんだろうなーと思ったんだよね。

でも、ラッキーなことに、自分の親は、小学校の頃の成績が壊滅的であっても、学校に通わせることを諦めたりせずに、根気強く学校の勉強を頑張ってほしいな、といい続けてたんだよね。まぁ、親に言われたから勉強したくなったわけじゃないのだけど、でも、自分の子どもの可能性を諦めなかったというのは、ラッキーだったな、と。

この時に読んだ本の著者も書いていたんだけど、途上国では親が自分の子どもの可能性を諦めてしまうケースがあるけど、教育制度が整っている国では、ほとんどの親は「義務教育の水準であれば子どもはみな達成できる」と信じて疑っていないことの力が大きいのだと。

ここまでのラインは、みんなが達成できる、と信じて疑わないこと。その力は大きい。

前に自分が平和学とか世界平和に関心を持ったきっかけ(海賊ライフのインタビューをよかったらみてね:「世界を平和にする!」を貫く海賊は、 計画性があるようでない、行動しながら考える人)と似ていて、そういった環境にいたら自分みたいに、中学生とかになるくらいまでとかあともう少しだけ辛抱してくれたら勉強ができる子になる可能性があるのに、その可能性が閉ざされている人たちもいるんだなーと心に響いたのを今もたまに思いだす。

そんな人たちが学校で教育を受けて能力を発揮できるようにできたらステキだな、と。

また、がんばろ、っと。

ではでは、またね。




2018年5月15日火曜日

意志を持った人が好きだ

最近、改めて思う。

自分が何をやりたいのか?それを実現するために意志を持って進んでいこうとする人が好きだ、と。

誰かがやってくれるかも、と期待するんじゃなくて、誰もやってくれなそうなら諦めるのではなくて、自分で進んでいこうとするところから、やっぱり道は開けるんじゃないかな、って。

何もかもが思い通りに進むなんてほぼないわけだし。むしろ、計画通りに進まないことの方が多い。

そんな世界で、何かを突き抜けるには意志が必要なんだ。

そういった人たちと話している時はとても楽しい。そんな仲間を増やしていきたいな。

ではでは、またね。

2018年5月3日木曜日

違和感、なんだこれは?

既成観念ではなく、自分の心が感じたものを信じよう。
そう改めて思った今回のバングラの農村での調査。

今回、バングラでの聞き取り調査は、ひさびさのフィールドでとても楽しかった。でも、正直、かなり怒りを覚えたのも事実。

別に、自分自身や、自分の仲間がイヤな目にあった訳ではない。インタビューをして感じた彼らの置かれている状況に腹が立った。

バングラは、マイクロファイナスが有名。ここでのマイクロファイナスは、貧しくて誰もお金を貸してくれる人がいなかった状況で、連帯責任や回収の仕組みをつくって、貧しい人でも融資を受けられるようにした画期的な仕組みだと言われている。実際に有名なグラミン銀行の創始者のユヌスさんはノーベル平和賞ももらってたりする。

でも、ほんとにそんなに諸手をあげて賞賛するような仕組みなのか?年利20〜30%で連帯責任を課して融資を回収する仕組みなんて、日本でいったらちょっと前に問題になったサラ金のような高利貸しと変わらなくない?

5年くらい前に、ナイジェリアで金融調査をした時も、マクロファイナスを何箇所か訪問して聞き取りをしたけど、インタビューに応じてくれたマイクロファイナスのおっちゃんは、まさにごりごりの貸金業!というような印象だった。

今回は、マイクロファイナスへのインタビューではなく、実際にお金を借りている農村の住民へのインタビュー。

マイクロファイナンスの高利を正当化する一つの理由は、誰もお金を貸してくれない貧困層でも、マイクロファイナスからお金を借りてビジネスをすることで、貧困からの脱却を手助けできる、という考え方がある。

で、実際に聞いてみた。

わき「マイクロファイナスからの融資は、何に使ってるの?」

ほとんどの人の回答は「生活費に使っている」というもの。

わき「なんで生活費が必要なの?」

回答者「いや、だって雨季になったら村で仕事がなくなるから、生活費がなくなるんだよね。で、借金して乾季になったら働いて返すんだ。」

わき「なんで貯金しないの?」

回答者「いや、生活が苦しくて貯金なんてする余裕ないよ。」

これっておかしくない?

確かに彼らは貧しい。実際に今回訪問した村は、バングラデシュの中でも貧しいと言われるエリアを選んでいるので。

でも、貯金する余裕はないけど、年利20%とかの融資を月収の3〜4ヶ月分を前借りして、金利と元本の返済を数ヶ月の融資期間で完了しているんだよね?

お金が全く回っていない訳ではない。

この回答を聞いた時に自分が感じたのは、”搾取の構造”

インタビューをしている貧しい人たちが、高利の借金を必要とする環境を作り上げることで、マイクロファイナンス自身が存続する仕組みを作っているんじゃないか、と。

もちろん、インタビューに協力してくれた人たちはそんなことは感じていないのかもしれない。むしろ、マイクロファイナスがあって助かっていると思っているかもしれない。

でも、この仕組みは健全ではないと感じる。

目指すべきは借金なんてしなくてもよい状況、特に毎年やってくる雨季に備える手段、をつくらなければいけないと思う。

雨季になったら仕事がなくなることはわかっているなら、その時に備えて貯金できるようにサポートするべきだ。そうすれば、借金の金利を払うんじゃなくて、額は少ないかもしれないけど預金の利息だってもらえるし。

それに、そもそも借り手が事業に投資しているとしても、自分が年利20〜30%の融資を受けてバングラでビジネスをしたとして、借金を返した上で儲けをだすようなことってできるだろうか?それも元手なんて何千万とか何億円なんて単位じゃなくて、せいぜい5万円の元手で。無理でしょw

なので、もともとマイクロファイナスにはあまり好意的でなかったけど、今回の調査で訪れた村のようなマイクロファイナスに代わる仕組みを作りたい!と思った。

もちろん、貧しい人が本当に生活に困った時にお金を借りることができる、というセーフティネットとしてのマイクロファイナスの役割は必要だと思う。

でも、常にセーフティネットに依存する仕組みになってしまっては、人の努力するという可能性まで閉ざしてしまう。

そう、よく言われる援助があることで、援助を受けることを当然のことと思ってしまっている開発途上国の発展が阻害されている、という考えにも近いものを感じる。

自分も援助が全部いらないなんて思わない。災害や紛争で緊急に誰かが支援しなければいけない状況だってあるし、そういった場合には援助をすべきだと思う。でも、援助があることで、人をダメにしてしまっては、なんのための援助なのかとも思う。

今回の調査はそんなことを改めて感じたし、現状を変えなければ!と、闘志が湧いてきた調査だった。

そんな感じ。

ではでは、またね。