2018年11月7日水曜日

覚悟を持てる範囲:責任者としての責任ってなに?


一口に責任感がある人といっても、いろんなジャンルがあるなーと思う。

自分で責任をとる覚悟を持っていること、それは大切だと思う。

でも、その覚悟を持てる範囲はどこまでなのか?

例えば、組織の責任者でその覚悟を持っている人がいたとしても、
・あらゆる意思決定は自分がしたのだから自分が責任を負っているという人、と
・部下に意思決定を任せたというのも自分の判断なのだから、部下の結果も含めて、そこまで含めて自分の責任だという人
はかなり違う気がする。

前者は、部下に決定をさせることを嫌う。自分で責任を負う覚悟があるということが、全ての意思決定は自分がする、というスタイルにつながっている場合、超官僚的な組織になって何も意思決定が進まない。逆にしっかりとした意思決定をせずになし崩し的な運営も起きてしまう。

後者のスタイルが望ましいんだと思う。部下にここまでは任せるから、その裁量の中で好きにやってみて、と相手を信じて仕事を頼める上司。その上で、部下がミスをしたとしてもそれすら自分が相手に委ねた結果だから、くらいに受け止めるような人になりたいな。もちろん、任せてもらった部下の立場からは、信頼してくれた上司の期待に答えるようにしたいし、ダメなら、自分も責任をとるんだ、という覚悟もあるべきだと思う。

むかし上司に、期待してくれた成果を脇坂がだせないと判断したら、(自分のクビくらいでは全然上司にとって割りが合わないでしょうけどw)いつでもクビにしてくれていいですよ、とか話してたなー。まぁ、それはちゃんとやるから仕事を任せて欲しい、というアピールでもあったわけだけどw

なんか、そんなことを思い出した今日この頃。

ではでは、またね。
脇坂


2018年11月2日金曜日

過程と結果は等価じゃない


結果が全てだ!というメッセージはすごく残酷な響きを持っているけど、実際に結果は大事だと思う。

その一方で結果だけで、よかったのか悪かったのかを判断されるのがイヤな人たちもいて、そういった人たちは過程も大事だ!と訴える。

確かに、過程も大事だ。

でも、過程がどんなに美しくても、結果が伴っていないなら、正直、意味はないというか持続性がない。

成果がでない過程が美しい“頑張り”をどれだけしたところで、続けられない。

過程と結果は等価ではないんだ。

言うなら、ぼろぼろの過程であったとしても成果がでていれば、改善の余地がある。同じ成果を出すために、どうしようもなかった過程を改善することができるのだから。

でも、どんなに美しい過程であっても、成果が出る見込みがないなら、続けること自体が難しい。私たちはとても頑張ったんです!と言いたくなる気持ちもわかるけど、頑張ったことと成果がリンクしなければ持続性はない。それにやっている人たちも、イベントのように短期間であれば、過程だけでも楽しむことはできるだろうけど、成果を伴わない活動を何年も続けるなんて普通の人には精神的にもできないはずだ。

もちろん、最終的に成果をだすことを目的に過程も大事にしているならそれが一番いいのだと思う。

何も世の中には、成果だけの志向の人と、過程だけの志向の人がきれいに二分して存在する訳ではなくて、自分も含めて多くの人はその両極の間のグラデーションの中にいるんだと思う。

でも、成果を追うことを放棄した人たちは、なかなか自分とは相性が悪いな〜と改めて思った。

もちろん、人生なので楽しみつつ、成果を追っていきたい。まぁ、自分は成果を追うこと自体が楽しいんだけどね笑

そんなことを思った今日この頃。

ではでは、またね。