海外ビジネス、新規事業、チームづくり、の3つのテーマのブログについては、新しいサイト:https://passion-drive.com/ に移転します。
こちらのサイトでは、今まで通りつぶやき?みたいなものは残していこうかな、と思いますが、メインは↑に移転しますので、よろしくお願いします!
沈み行く太陽 空に煌く星
このブログのタイトルについて。 これは、自分の大好きな曲、絶界(by Buck-Tick)の一節から。もちろん、こんな穏やかな景色をぼ〜っと眺めることができたら幸せ。 国際協力とか平和構築の仕事をしてみて、今はカンボジア(農業・食品)とバングラデシュ(人材育成)でビジネスの立ち上げ支援をしてます。 夢は世界平和。努力した人が自分の人生を自分で選べるような世界をつくる! そんな自分の個人的な感想のブログです。
2019年4月19日金曜日
2019年3月15日金曜日
誰かに「生かされている」のではなく、自分の意志で「生きる」ということ
去年の夏ころから取り組んでいた仕事が一段落して、帰路についたプノンペン空港で、ふと気になってひさしぶりに読んでみた「サンクチュアリ」というマンガ。
数年前に初めて読んで、おもしろかったのは覚えているけど、なぜか急に読みたくなった。
サイドストーリー的に展開する舞台がカンボジアなのも縁なのかもしれない。
深夜便のフライトの中でも、寝落ちする直前まで読んで、家についても一日読みとおしてまさかの完読w
「なんでわっきーは今の仕事してるの?」
よく聞かれる質問。
「日本の大人たちがぜんぜん楽しそうじゃない。死んだ目をしていて仕事とかを大人になるってこんなもんだよ、と諦めたような感じで生きているのがイヤだ!そんな目をして死んだように生きるくらいなら、自分がやりたいと思えるようなことをして楽しく生きていこうよ。」
って思うんだよね。
で、同じメッセージがこのサンクチュアリにもあるな、って改めて発見w
誰かに生かされているのではなくて、自分の意志をもって生きていこうぜ、と。
そして、もっとグッとくるメッセージは、教育が大事だ、と。
教育で人はどのようにも調教できてしまう。だから、自分の意志で考えることができる人を育てることってとても大事だ。
ここが難しいところでもあるけど、誰かの受け売りで「自分の意志で何かをしている気になっている人」も多いのも事実だと思う。
そういった人には、何をしたいのか聞いても無駄というか、どうやって話しかけたらよいのか、自分でもまだわからない。
誰かに言われたから、誰かがそうしているから、誰かがそうすることを望んでいるから、自分はこれをしたい、という人には自分の意志がないと言い切ってしまっていいのか?
でも、それって、誰かの意志に生かされている人、ってことだよな、とも思う。
そう思うと、やっぱり違うのだと思う。
自分の意志で何をしたいのか、どういったことをして生きたいのか。
それを大事にして欲しい。
大事なことは、周りなんて関係ない。環境や状況が変わったからといって自分自身の夢(目標)が変わるわけじゃない。
環境や状況が変わることがあっても、その中で、自分自身の夢を実現するにはどうしたらよいのかを考えることが大事なんだ。
自分自身についても、環境が変わりつつある現状、それはそれで大きな出来事だけど、とはいっても、やりたい夢は変わらない。
それを実現するためにベストな選択をするしかない。
サンクチュアリは90年代の時代背景で描かれているんだけど、そこから、20年経った、今のカンボジアは当時とは全然違う世界が広がっている。そして、この先の将来ももっともっと希望が持てる世界になりそうだし、そうしていきたい。
その一方で、日本をみると、ちょっと悲しいかな。90年代の時代背景で書かれたこのサンクチュアリが問題提起して描いている状況が、今も相変わらず続いている。。。これも変えて行きたい。
自分は日本が好きだ。でも今の日本は自分が好きな日本ではない。未来にもっと好きになれる日本を創りたい。
そんなことを思ったカンボジアからの帰国日。
ではでは、またね。
2019年2月24日日曜日
存在:be動詞が“存在”をあらわすんだって中学校ぶりに思いだした
最初は、好きなカードを取ってください、といわれ、好きなメッセージが何個かある中でちょっと迷いつつも好きなメッセージが書かれているカードを。
「Journey 旅」
ふらふらと旅したい性格な自分にとっては、このカードはすっとくる。
でも、ちょっと気になったのは、そこに描かれている写真。
撮り忘れちゃったけど、おじいちゃんかおばあちゃんが自身の左右の手をふわっと握っている白黒の写真(手の部分だけのアップ)だったんだよね。
あんまり旅っぽくない?!
でも、これに自分自身で意味づけをするなら、どう言ったことなんだろう?とちょっと気にもなるw
しばらく考えてみて、「旅する」ってそれなりに覚悟を決めてするもののような気もするけど、そんな強い決意で始めたりするものではないのかな、とも。
強い決意ってメッセージなら、固く握った拳とかになる気がするし。
そう、旅って、もっと気楽な、自由なものなんだろうな、と思う。絶対にやってやるんだ、という肩肘を張ったものではなく、もっとふわっとした自然体のものなんだろうな。
ワークショップの終盤では、伏せられて何が書かれているか見えない状態でランダムにカードを2枚ひいて、そのカードの意味を考えてみよう、というターンがきた。
なんかタロット占い(?)みたいだな、と思いつつw
で、ひいたのがこの2枚。
・Should be あるべき
・Just be あるがまま
どちらも「存在」をあらわすbe動詞系w
なかなかの組み合わせをひくな〜とか思いつつ、このメッセージから何を思うか?
まずは、シンプルに、両方を組み合わせて、「あるがままに生きるべき」ってことなんだろうな、と。
でも、気になるのは、上の「Should be」のカード。
あるべき、というのは誰の価値観なんだろう?と。
それによく見れば、写真のおじさん2人は、女性ものの派手なブーツを履いている。これが履きたいのだろうな、と思った自分は、こう言った人たちに「いい歳の男性のおじさんらしく、もっとちゃんとした格好をしなさい」と自分自身の価値観を押し付ける人もいるのだろうけど、「自分自身がこうありたい」と思うなら、それはそれでいいんじゃないのかな、と。
それによく見れば、写真のおじさん2人は、女性ものの派手なブーツを履いている。これが履きたいのだろうな、と思った自分は、こう言った人たちに「いい歳の男性のおじさんらしく、もっとちゃんとした格好をしなさい」と自分自身の価値観を押し付ける人もいるのだろうけど、「自分自身がこうありたい」と思うなら、それはそれでいいんじゃないのかな、と。
それこそ、何かをガチガチに決めてしまうのではなく、ふわっとゆるく肩の力を抜いた自由な気持ちも大切なんだろうな、と。
2枚のカードは見方によっては、真逆のメッセージにもなるけど、それをどのように解釈するかはそれこそ受け手しだい。
自分自身がこうありたい、と思う姿で、そのままの自分で生きていけたら楽しんだろうな、と。
ではでは、またね。
わっきー
2019年2月5日火曜日
メッセージ:ほんとに伝えたいことが伝わらない
「なんでブログ書いてるの?」
そんなことをふと聞かれた。
確かに、なんで書いてるんだろ?
「不定期の日記のような感じで自分自身で読み返すため、かな。」
「じゃあ、なんで公開してるの?」
「確かに。。。うん、やっぱり自分が考えたり思ったりしていることを伝えたいんだ。」
海賊ライフ(https://piratelife.jp/)のライターになったのも同じ理由だ。
自分自身が心の底からやりたいと思っている道を自分の意思で選ぶ。
他の誰かに望まれたからではなく、自分はどうしたいのか?ということを本気で考えて、そういった選択をする人が増えたら、世界はもっと素敵な場所になるだろう。
では、こういった人(仲間)を増やすにはどうしたらいいのだろう?
ここがなかなか悩ましい。正直、まだ答えは見つからない。
それこそ、多感な中学生とか高校生といった時期にカッコいい大人に出会えること(人生初のヤバい大人との出会い)は、一つのきっかけなのだと思う。
だから、体が元気なうちは、やりたいことを自分自身でやりきって、おじいちゃんになったら子どもたちに教える先生になりたいな、と思っている。
それまで、ちゃんと子どもたちに夢を持って人生を生きて欲しいと伝えられるカッコいい大人に自分もならなくては、というのが私自身の今のモチベーションにもなっている。
でも、今まさに関わることが多い「思春期」を過ぎてしまった大人たちの世代には、どうしたらこのメッセージは刺さるのだろう?
自分の心に素直に従ったら、何をあなたの心は望んでいるの?
それに向かって、自由に進んでいけばいいんじゃない?
本気で望むなら、そしてそれを自分が手伝うことができるなら、私は役に立ちたい。
自分がこれまでに関わってきたクライアントの中で、会社名を見た瞬間からぐっと心をつかまれた「株式会社 正義の味方」のテーマソング(東北合神ミライガー)の歌詞も同じことを言っているな。
「立ち上がるなら~手を貸そう 歩き出すなら~背を押そう」
そう、「自分の意思」で生きることを選んだ人を支えたいんだ。
でも、この「自分の意思」というのが今でも難しい、と感じる。
何をしたいの?と聞いた結果としての答えとして、「これがしたいです」という場合。
答えを出すことを求められているから答えた場合。三択クイズで選ばなければいけないから、とりあえず「A」と答えたような場合、その回答に本人の意思は反映されていない。
とりあえず質問者(私)が望んでいるであろう選択肢の中から答えを、自分の意思ではなく、質問者(私)の意図をくみ取ってしまって答えてしまう人もいるのだと思う。
そういった時、本人の意思として「言葉」では表明されていても、それは「心」から望んだものではない。
自由に自分の意思で何を望むのかを考えて生きて欲しい、と伝えたかったのに、そのメッセージに対する回答が、私の意思を反映したものになっていたのなら、全然、メッセージが伝わっていないではないか。
だから、本当に自由な意思で生きることを味わってほしい、と思うなら、何を望むのか?とか、そういったことを問いかけてはいけないのかも知れない。
無理やり立ち上がらせたり、背を押したりしてはダメなのかも。
あくまで、(自分の意思で)「立ち上がり、歩き出す」なら、それを支えるべきなのかも知れない、と。
そんなことを思ったここ最近のできごと。
ではでは、またね。
脇坂
2019年1月27日日曜日
反逆者のメンタリティ
何か最近、自分のいまの性格ってどうやってできたんだろ?とふと考えてみたり。
で、なかなか変な性格だな~と自分でも思うのが、なぜか、多数派でいることに居心地の悪さを覚えるこの性格w
もっと正確に言えば、多数派でいることよりも、自分の価値観と合う人といる方が断然居心地がいい。自分が少数派だってことは全然気にならない。
こんな性格だから、組織を作っていくとか向いていないんじゃないか?!と思ったりもする(笑)
でも、なんでこんな協調性のない性格になったんだろ?と自分としても不思議。別に子どもの頃を振り返ってみても、多数派にイヤなことをされた思い出なんてないのに。
でも、子どものころから、自分の意思を曲げてまで周りに合わせることは苦手だった。頑固な子どもw
そんなことがあったりして、自分のような考え方をする人って少ないんだろうな、と少しづつに実感してきたのかもしれない。
自分が出会う人のなかで、好きな人、嫌いな人、がいる。そして、好き嫌いが激しいので、結構それははっきりとw
そして、その好き嫌いってもちろんたまには最初の印象が違っている人もいるけど、だいたい自分の感じる好き、嫌いセンサーは合っている。今までのところ。
で、好きな人は結構シンプル。我が道を突き進む感じな人。まぁ、その突き進もうとしている方向性に共感をもてるとさらにいい感じ。
では、逆に嫌いな人ってどんな人なんだろう?と考えると、意外にも迷ってしまったw なんで嫌だと感じる人がいるのだろう?と。
でも、一つだけ、自信を持って言えることがあった。こんなことを自信を持って言えることを誇ってよいのか迷うけど(笑)
自分が優位な立場にいて、その立場を使って(意識・無意識を問わず)立場の弱い人に不利益を負担させている人は結構はっきりと嫌いだな、と。
まぁ、そういった人を嫌っていることは悪いことではないと思うから、まぁ、いいか、とも思うw
そんな性格もあって、上司とよくケンカするw もっとしっかりしろよ、とか、あなたの考え方に賛同できません、とか。これは新人の頃からよくやらかしていたw
逆に、部下を持って、部下を叱る(叱り方が厳しすぎると怒られることもあったけど)時には、かなり優しい気持ちになれるんだよね。別に次はもっとうまくやってくれればいいと思うけど、今回のミスについては、こういったところはこういう風に気を付けていれば防げたはず、と伝えようと思うし。まぁ、伝え方が下手くそというのはあるけど。。。
そして、どんな会社で働くか?についても、大きな会社より小さい会社の方がやりがいを感じちゃったり。小さな会社で働くということに不安とか、なんでもっと大きな会社で働くこともできるのにここにいるんだろ?的な発想はないんだよね。
これも子供のころからの性格、反逆者のメンタリティ、が原因なのかも知れない。
そういった意味では、究極、ホントに少数の小さな会社でも全然いいんだろうなーと思ったりも。
まぁ、別にどこにいるかは問題じゃなくて、何をしたいか?が大事なので、この先も自分の心に従って生きていきたいな。
そんなことを思ったここ最近。
ではでは、またね。
脇坂
で、なかなか変な性格だな~と自分でも思うのが、なぜか、多数派でいることに居心地の悪さを覚えるこの性格w
もっと正確に言えば、多数派でいることよりも、自分の価値観と合う人といる方が断然居心地がいい。自分が少数派だってことは全然気にならない。
こんな性格だから、組織を作っていくとか向いていないんじゃないか?!と思ったりもする(笑)
でも、なんでこんな協調性のない性格になったんだろ?と自分としても不思議。別に子どもの頃を振り返ってみても、多数派にイヤなことをされた思い出なんてないのに。
でも、子どものころから、自分の意思を曲げてまで周りに合わせることは苦手だった。頑固な子どもw
そんなことがあったりして、自分のような考え方をする人って少ないんだろうな、と少しづつに実感してきたのかもしれない。
自分が出会う人のなかで、好きな人、嫌いな人、がいる。そして、好き嫌いが激しいので、結構それははっきりとw
そして、その好き嫌いってもちろんたまには最初の印象が違っている人もいるけど、だいたい自分の感じる好き、嫌いセンサーは合っている。今までのところ。
で、好きな人は結構シンプル。我が道を突き進む感じな人。まぁ、その突き進もうとしている方向性に共感をもてるとさらにいい感じ。
では、逆に嫌いな人ってどんな人なんだろう?と考えると、意外にも迷ってしまったw なんで嫌だと感じる人がいるのだろう?と。
でも、一つだけ、自信を持って言えることがあった。こんなことを自信を持って言えることを誇ってよいのか迷うけど(笑)
自分が優位な立場にいて、その立場を使って(意識・無意識を問わず)立場の弱い人に不利益を負担させている人は結構はっきりと嫌いだな、と。
まぁ、そういった人を嫌っていることは悪いことではないと思うから、まぁ、いいか、とも思うw
そんな性格もあって、上司とよくケンカするw もっとしっかりしろよ、とか、あなたの考え方に賛同できません、とか。これは新人の頃からよくやらかしていたw
逆に、部下を持って、部下を叱る(叱り方が厳しすぎると怒られることもあったけど)時には、かなり優しい気持ちになれるんだよね。別に次はもっとうまくやってくれればいいと思うけど、今回のミスについては、こういったところはこういう風に気を付けていれば防げたはず、と伝えようと思うし。まぁ、伝え方が下手くそというのはあるけど。。。
そして、どんな会社で働くか?についても、大きな会社より小さい会社の方がやりがいを感じちゃったり。小さな会社で働くということに不安とか、なんでもっと大きな会社で働くこともできるのにここにいるんだろ?的な発想はないんだよね。
これも子供のころからの性格、反逆者のメンタリティ、が原因なのかも知れない。
そういった意味では、究極、ホントに少数の小さな会社でも全然いいんだろうなーと思ったりも。
まぁ、別にどこにいるかは問題じゃなくて、何をしたいか?が大事なので、この先も自分の心に従って生きていきたいな。
そんなことを思ったここ最近。
ではでは、またね。
脇坂
2019年1月1日火曜日
自分の価値観を形づくるもの
静かな新年の一日目。まだ誰とも話していないw
こんな静かな日には、久しぶりに好きな歴史の本を読みながらぼ~っとしてみる。
そして思うこと。
自分自身の価値観って何なのだろう?と。
良い、悪い、好き、嫌い、とか言う感情。これも自分自身の価値観がベースになって自分が感じるものだ。
でも、自分自身の価値観って、自分ひとりで作り上げてきたものではない。
両親や兄弟、学校や同級生、会社や同僚、仲間、そして自分が育った社会や時代の価値観との関わりの中で、形づくられてきたものだ。
だから、自分自身の価値観も、自分が経験してきた中で学んできたものを取捨選択した結果で、たまたま今この瞬間に持ち合わせているものでしかない。
周りの人たちと関わる中で、さらに言えば直接的に知り合った人たちだけでなく、過去を含むいろんな人たちの影響を受けている。
だから、自分が中学生の頃に感じたように、今の自分とは全く違う環境で育ったのであれば、今とは全く違う自分自身になっていることだってあり得る。
そういったある意味儚いものであったとしても、やっぱり自分が何を感じてどう行動したいと思うか?は、大切なのだと思う。
この先、積み重ねていく経験の中で、仮に今とは違った価値観や考え方になったとしても、今のこの瞬間に生きている自分が何を感じるのかを大切にしたい。
それに従って判断して行動したのなら、仮に将来の自分だったら今の自分と違う判断をするようなことがあったとしても、後悔なんてしないはず。
その時の自分の心に素直になれたのであれば。
そんなにしょっちゅうこんなことを考えているわけではないけど、自分自身って何者なのかな?どうやって形づくられているのだろう?とかたまに振り返ってみたり。
これから先も素直に自分の心に従って生きていきたいな。
そんなことを思った2019年の新年の始まり。
ではでは、またね。
脇坂
2018年12月21日金曜日
吐きそうな気持ちの後に泣きたくなったその後で
こんなにも心を揺さぶられるなんて思ってもいなかったことが起きた。
久々に帰国した翌日なので、ランチはやっぱ日本食たべたいな〜♪ なんて思っていた気持ちなんて一気に吹き飛ぶ。
空腹だったのに、全く食事をとりたいなんて思えない。
何も食べていないのに、吐き気まで。
空腹なのに吐き気をもよおすことなんてあるんだ。知らなかったよ笑
プレッシャーとかではない。ただ、自分がどう判断したらよいのか、本当にわからなくなって、でも判断をしなければいけなくて迷っていたのだと。
心底、どちらを選べばよいのか、本気で悩むとこんな状態になるのだと知る。
そして、選択肢を天秤にかける時に、自分が選ぼうとしている選択肢が、自分の単純な思いとは逆の選択肢でもあることで、どうしようもなく悲しく泣きたくなった。ほんとは、ちょっとだけ泣いた笑
でも、結局自分自身に問いかけるのは、他の誰かの期待に答えるというそんな殊勝な気持ちではなく、自分自身の心がどちらを選びたいのか?ということなのだと思う。
そんなに100:0なんてシンプルな天秤ではないからこそ、人って悩むんだ。
そして、こんなヤバめの悩みも人に相談できれば、すっごく気が楽になることも知った。
今はもう大丈夫。
ではでは、またね。
脇坂
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