2019年2月24日日曜日

存在:be動詞が“存在”をあらわすんだって中学校ぶりに思いだした


手にしたカードに描かれている写真やメッセージと自分自身との関連性を思考するなかで、自分自身がどんなことを考えているか?や、他の人にどのように思われているんだろうな、ということを探ってみるゲーム感覚な「Points of You®」というワークショップ。

最初は、好きなカードを取ってください、といわれ、好きなメッセージが何個かある中でちょっと迷いつつも好きなメッセージが書かれているカードを。

「Journey 旅」

ふらふらと旅したい性格な自分にとっては、このカードはすっとくる。

でも、ちょっと気になったのは、そこに描かれている写真。

撮り忘れちゃったけど、おじいちゃんかおばあちゃんが自身の左右の手をふわっと握っている白黒の写真(手の部分だけのアップ)だったんだよね。

あんまり旅っぽくない?!

でも、これに自分自身で意味づけをするなら、どう言ったことなんだろう?とちょっと気にもなるw

しばらく考えてみて、「旅する」ってそれなりに覚悟を決めてするもののような気もするけど、そんな強い決意で始めたりするものではないのかな、とも。

強い決意ってメッセージなら、固く握った拳とかになる気がするし。

そう、旅って、もっと気楽な、自由なものなんだろうな、と思う。絶対にやってやるんだ、という肩肘を張ったものではなく、もっとふわっとした自然体のものなんだろうな。



ワークショップの終盤では、伏せられて何が書かれているか見えない状態でランダムにカードを2枚ひいて、そのカードの意味を考えてみよう、というターンがきた。

なんかタロット占い(?)みたいだな、と思いつつw

で、ひいたのがこの2枚。

・Should be あるべき
・Just be あるがまま

どちらも「存在」をあらわすbe動詞系w

なかなかの組み合わせをひくな〜とか思いつつ、このメッセージから何を思うか?

まずは、シンプルに、両方を組み合わせて、「あるがままに生きるべき」ってことなんだろうな、と。

でも、気になるのは、上の「Should be」のカード。

あるべき、というのは誰の価値観なんだろう?と。

それによく見れば、写真のおじさん2人は、女性ものの派手なブーツを履いている。これが履きたいのだろうな、と思った自分は、こう言った人たちに「いい歳の男性のおじさんらしく、もっとちゃんとした格好をしなさい」と自分自身の価値観を押し付ける人もいるのだろうけど、「自分自身がこうありたい」と思うなら、それはそれでいいんじゃないのかな、と。

それこそ、何かをガチガチに決めてしまうのではなく、ふわっとゆるく肩の力を抜いた自由な気持ちも大切なんだろうな、と。

2枚のカードは見方によっては、真逆のメッセージにもなるけど、それをどのように解釈するかはそれこそ受け手しだい。

自分自身がこうありたい、と思う姿で、そのままの自分で生きていけたら楽しんだろうな、と。

そんなことを改めて思った今日。

今回のイベントの様子は、海賊ライフ(https://piratelife.jp/)のコラムにもそのうちアップしますので、よかったらみてみてください〜

ではでは、またね。
わっきー

2019年2月5日火曜日

メッセージ:ほんとに伝えたいことが伝わらない


「なんでブログ書いてるの?」


そんなことをふと聞かれた。

確かに、なんで書いてるんだろ?


「不定期の日記のような感じで自分自身で読み返すため、かな。」


「じゃあ、なんで公開してるの?」


「確かに。。。うん、やっぱり自分が考えたり思ったりしていることを伝えたいんだ。」


海賊ライフhttps://piratelife.jp/)のライターになったのも同じ理由だ。

自分自身が心の底からやりたいと思っている道を自分の意思で選ぶ。

他の誰かに望まれたからではなく、自分はどうしたいのか?ということを本気で考えて、そういった選択をする人が増えたら、世界はもっと素敵な場所になるだろう。



では、こういった人(仲間)を増やすにはどうしたらいいのだろう?



ここがなかなか悩ましい。正直、まだ答えは見つからない。

それこそ、多感な中学生とか高校生といった時期にカッコいい大人に出会えること(人生初のヤバい大人との出会い)は、一つのきっかけなのだと思う。

だから、体が元気なうちは、やりたいことを自分自身でやりきって、おじいちゃんになったら子どもたちに教える先生になりたいな、と思っている。

それまで、ちゃんと子どもたちに夢を持って人生を生きて欲しいと伝えられるカッコいい大人に自分もならなくては、というのが私自身の今のモチベーションにもなっている。



でも、今まさに関わることが多い「思春期」を過ぎてしまった大人たちの世代には、どうしたらこのメッセージは刺さるのだろう?

自分の心に素直に従ったら、何をあなたの心は望んでいるの?

それに向かって、自由に進んでいけばいいんじゃない?

本気で望むなら、そしてそれを自分が手伝うことができるなら、私は役に立ちたい。



自分がこれまでに関わってきたクライアントの中で、会社名を見た瞬間からぐっと心をつかまれた「株式会社 正義の味方」のテーマソング(東北合神ミライガー)の歌詞も同じことを言っているな。

「立ち上がるなら~手を貸そう 歩き出すなら~背を押そう」



そう、「自分の意思」で生きることを選んだ人を支えたいんだ。


でも、この「自分の意思」というのが今でも難しい、と感じる。


何をしたいの?と聞いた結果としての答えとして、「これがしたいです」という場合。


答えを出すことを求められているから答えた場合。三択クイズで選ばなければいけないから、とりあえず「A」と答えたような場合、その回答に本人の意思は反映されていない。

とりあえず質問者(私)が望んでいるであろう選択肢の中から答えを、自分の意思ではなく、質問者(私)の意図をくみ取ってしまって答えてしまう人もいるのだと思う。

そういった時、本人の意思として「言葉」では表明されていても、それは「心」から望んだものではない。



自由に自分の意思で何を望むのかを考えて生きて欲しい、と伝えたかったのに、そのメッセージに対する回答が、私の意思を反映したものになっていたのなら、全然、メッセージが伝わっていないではないか。

だから、本当に自由な意思で生きることを味わってほしい、と思うなら、何を望むのか?とか、そういったことを問いかけてはいけないのかも知れない。

無理やり立ち上がらせたり、背を押したりしてはダメなのかも。

あくまで、(自分の意思で)「立ち上がり、歩き出す」なら、それを支えるべきなのかも知れない、と。

そんなことを思ったここ最近のできごと。

ではでは、またね。
脇坂