2018年5月16日水曜日

可能性を信じて疑わないことの難しさと強さ

むかし読んだ本の話。

自分は、読んだ本の内容を覚えていることは少ないんだけど、この本は今でもたまに思いだす。

覚えているのは、開発途上国とかで「子どもを学校に通わせるのをやめよう」と親が判断するきっかけに関する記述。

開発途上国とか貧しい家庭では、子どもがある程度の年齢(とはいっても小学生くらい)になると、労働力とも考えられるようになって、そういった時に親がこの子をこのまま学校にかよわせ続けるか?を考えるタイミングがくるのだと。

で、その時点で、自分の子どもが、周りの子どもと比べて勉強ができない(それは学校の成績から、”その時点で”、自分の子が勉強ができるのか?は分かる)と、あ、この子には勉強をさせても将来の見込みがないから、学校に通わせるのは無駄だから働いてもらうことにしよう、となるケースも多いらしい。

ポイントとしては、勉強ができるようになることが子どもの将来にとってよいことだ、という認識を持っていても、こういった迷いというか判断をする親が多いのだと。例えば、その子よりももっと勉強のできる兄弟がいれば、この子は学校には通わせられないけど、他の勉強のできる子はできるだけ学校に行かせてあげよう、と考えるらしい。

これが自分の心に残っている理由は、自分が小学生の時にほんとに勉強ができなかったという衝撃(笑)

ほんとに小学校低学年の頃は、「よくできる」、「ふつう」、「がんばりましょう」の3段階評価で、ほぼ一列に「がんばりましょう」が並んでいたのだから。で、ちょっとだけよい項目にわずかばかりに「ふつう」がある程度。

小学生ながらに、先生はなんて残酷な成績表を(こんな小さな子どもの)自分につけるもんだw、と思ったのを覚えているくらい。こういったことを思うメンタリティは今と変わってないかもw

そう、こういった小学生だった自分からすれば、自分の親が冒頭の途上国の親と同じような環境だったら、自分は小学校を卒業させてもらえなかったんだろうなーと思ったんだよね。

でも、ラッキーなことに、自分の親は、小学校の頃の成績が壊滅的であっても、学校に通わせることを諦めたりせずに、根気強く学校の勉強を頑張ってほしいな、といい続けてたんだよね。まぁ、親に言われたから勉強したくなったわけじゃないのだけど、でも、自分の子どもの可能性を諦めなかったというのは、ラッキーだったな、と。

この時に読んだ本の著者も書いていたんだけど、途上国では親が自分の子どもの可能性を諦めてしまうケースがあるけど、教育制度が整っている国では、ほとんどの親は「義務教育の水準であれば子どもはみな達成できる」と信じて疑っていないことの力が大きいのだと。

ここまでのラインは、みんなが達成できる、と信じて疑わないこと。その力は大きい。

前に自分が平和学とか世界平和に関心を持ったきっかけ(海賊ライフのインタビューをよかったらみてね:「世界を平和にする!」を貫く海賊は、 計画性があるようでない、行動しながら考える人)と似ていて、そういった環境にいたら自分みたいに、中学生とかになるくらいまでとかあともう少しだけ辛抱してくれたら勉強ができる子になる可能性があるのに、その可能性が閉ざされている人たちもいるんだなーと心に響いたのを今もたまに思いだす。

そんな人たちが学校で教育を受けて能力を発揮できるようにできたらステキだな、と。

また、がんばろ、っと。

ではでは、またね。