2017年12月22日金曜日

精神的な自立、潔さ

今日は、その人がずっと海外で仕事しているので滅多に合わない同僚というか先輩、自分にうまいコーヒー、焙煎を教えてくれたコーヒーの師匠に久々に会えた。

その人はやっぱりいいな、というかかっこいいおっちゃんだな、と思って。

たまたま今朝、その逆?というか自分が苦手なタイプの人のことを思い出してちょっとイヤな気分だったから、なんでこんなに違うんだろ?とコーヒーの師匠と別れた後に考えたんだよね。

もともと人の好き嫌いははっきりしている性格ではあるけど、なんとなく気になって。

で、思ったのが、精神的に自立している大人、が好きなんだろうな、と。

その逆に、苦手な人は、例えば「私を助けろ!」とか「あなたは私を助けて当然なんだ」的なことを言ってくる人。意味がわからない命令をしてくる。

もちろん、貸し借りの帳簿の感覚はあるし、そう言ってくる人にはそんなことを言われるレベルでの借りなんてない。なんならその逆じゃない?と思えるようなくらい。

あとは、なんか条件が良さそうなことがあるとしっぽをフリフリすぐに付いていく人。まぁ、そういう人を好きな人はあまりいないと思うけど笑

こういった人たちを見ると、キライだな、と思うけど、そのキライの先にどんな感情があるのかな?と考えると、前者は残念な気持ちなのかな、と。別にそういう相手に怒りを覚える感じではないんだよね。もちろんちょっとイラっとはするけど笑 なんか残念な感じ、というのが強いかな。

後者の方は、残念さもあるけど、気持ち悪い、もあるな、と。

キライの中にもいろんな感情がその先にあるな、ってのはおもしろい。

そう言った人たちも必死なんだよ、ということもできる。もちろん必死なのはわかるし、そのためになりふり構わない姿でやっているのだとも思うけど、必死な人が全員、そういう姿になる訳ではないじゃん。

必死な人をみて笑うなんて趣味の悪い感覚はないし、必死に頑張っている人はステキだなと思うし。

あ、これも中学の時の先生の影響かも笑

その先生、「必死になって勉強するやつらの姿をみて、かっこ悪いとかダサいとかいうやつなんてカンケーねーだろ。それができねーやつらなんて気にするな!」的なことを言っていた。まぁ、自分はそれほどまじめに勉強していなくて、そのあと、「脇坂、なめてんじゃねーぞ!」と怒られもしたけど笑

朝はそんな人たちがふと頭によぎってイヤな気分だったんだけど、コーヒーの師匠に会って、あ、やっぱ、こういう人好きだ、となれたので、今夜も気持ちよく酒が飲める笑

この人には、たぶん、前にあげた2つのタイプの人たちのような感覚は全然ない。自分のやりたいことは見えていて、それをやるために進んでいきたい、という姿勢。

この師匠に限らず、好きなタイプの人は、自分の意思で決めたことに対する責任というか覚悟があって進んでいる人なんだろうな、と。

それは依存なんてなくて、自立した姿なのだと。

で、それを他の人が見ると、潔いと呼ぶのかもしれない。

もちろん、自分にしたって誰だって、たった一人でなんでもやって生きている訳ではないから完全な自立なんてない。

でも、精神的に自立している人ってのは美しいというかかっこいいな、と思う。

そんな大人が好きだ。

ではでは、またね。

2017年12月20日水曜日

独裁者と引き際

独裁という言葉の響きは悪い。

独裁が弾圧や虐殺を指すのであれば、もちろん、そんなの自分も受け入れられない。

その一方で、独裁が「強烈なリーダーシップ」を指すものとして考えたらどうだろう?

置かれた状況の中で対処すべき課題は無数にあるなかで、優先順位を定めて、それに集中して取り組む、それは強烈なリーダシップでもあるのではないか。

中途半端に意思決定ができず、政策の安定性がない国よりも、独裁者によって一貫した開発計画が実行に移されてきた国の方が経済的に発展することもある。

でも、独裁の弱さもある。

独裁が特定の個人の場合、結局、その個人が認識できる課題、そしてその個人が考えつく対策、それがキャパの限界。個人が全ての意思決定をする以上、その人のキャパを超えた課題には対処できないのだと。

例えば、戦うことにかけて才能を発揮したリーダーがいたとして、敵を打ち倒した先に新しい国家を作り上げていく段階になった時に、そのリーダーは国づくりという局面においても最高のリーダシップを発揮できるだろうか?

開発途上国のリーダーとして、経済成長を最優先事項に掲げて経済成長を達成してきた初期のリーダーが、多様な産業や新しいテクノロジーといったものを取り込んでいかなければ経済成長が難しかったり、国民が経済成長だけでなく政治参加の権利や、自由な言論を望むような局面に達した時、その新しい状況でも最高のリーダシップを発揮し続けられるだろうか?

これは国づくりといった大きなテーマだけでなく、ビジネスの組織運営といったところでも共通すると思う。

過去の困難な状況を乗り越えてきたという自負や自信も手伝ってか、新しい状況になっても、自分がやれる、という錯覚に成功したリーダーが陥りやすいのも、まぁ、人なのでそういうものなのだとも思う。

とても難しいことではあるけど、そういった困難な局面に立ち向かったリーダー達が目指した世界が実現できた時、そのリーダー達がもっとも力を発揮できた過去の状況とは違う状況を作り出したのはリーダー自分自身であるということ。

なので、リーダーには引き際がとても大事なのだと。自分が得意な状況が(目的を達成して)去ってしまった時、その新しい状況で、もっとも力を発揮できる次の人にリーダーの立場を譲ることができること。それが理想のリーダーなのかな、と思う。

すっごく稀に、状況が変われば、その状況の変化に応じてリーダシップのスタイルを変えることができるリーダーもいるのかもしれない。でもそういった人はほんとに少ない気がする。

なので、自分が一番好きな(力を発揮できる)状況を理解して、そこで活躍できれば、それが一番いいのだろう、と思う。

自分が好きなのは、カオスな乱戦状態。この先、どういった状況になるかはわからない状況で戦っていくのが好きな性格。

正直、自分としては、全員の合意のもとに物事を進める、というアプローチには否定的。何が正解かわからないカオスな状況の中で、みんなが満足する、それぞれがやりたいことを、全員の意思を尊重してやっていくなんて効率が悪すぎる。

自分が今この瞬間、最もよいと思うアプローチを考えて、それに突き進んでいくのが好き。アプローチが今ひとつうまくいかないな、と思えば、また、次のアプローチを考えればいいだけのこと。

その一方で、カオスな状況を乗り越えられたら、それは、次に状況を体系立ててシステム化していくことが好きな人に役割を譲ればいいと。

そして、自分は次のカオスなワクワクするフィールドに転戦していけばいいのだと。

そんなカオスな戦いが大好きな人たちとチームを組んでやっていけたら、楽しいだろうな。

ではでは、またね。

2017年12月13日水曜日

世界の中心

今日は久しぶりに中学の頃に好きだった先生の話。

その人は、今の自分の人格というか性格に一番大きな影響を与えた人。

先生の言葉で「世界は俺を中心に周ってる!」と言うのがあって、今でもたまに思い出す。

その先生の「道なんて俺が歩いた後にできるんだ!」って言葉の思い出はこちらのブログ:http://2anotherw0rld.blogspot.jp/2017/07/blog-post.html

普通に生活していて、突然そんなことを言っている人が周りいたら、まぁ、普通は頭が少しおかしいのかな?と思うだろう。

でも、自分がその言葉を聞いた時に思ったのは「確かに。あなたの世界はあなたを中心に周っているけど、自分の世界は自分を中心に周っているのだから、まぁ、そうだよね。」と。

この人、頭おかしい(笑)とならずに、そんな風に思えたのは、たぶん、その先生が自分の意思で生きている、というのを感じていたからだと思う。

自分の生き方は、自分で決めているんだから、当然、その世界は自分を中心に周っている。主人公が自分自身なのだから。

そして思ったのが、自分が主人公なこの人生、ちゃんと自分の意思で考えて決めていきたいな、と。

中学生だった自分は全く気づけなかったけど、たぶん、自分のやりたいことをやって生きていこうとしていたその先生にも葛藤とかいろいろあったんだろうとも思う。でも、流れに流されたり、誰かに決められたことをしているのではない生き方をしているその先生はかっこいいな、と思ったんだよね。

そんなかっこいい大人になりないな、と思ったし、今もそういうかっこいい大人になりたいと思っている。

なので、今でもその人の影響は大きい。教わっていたのは普通に勉強だけど、勉強というよりは、なんだろ、生きていく上での自分の意思の大切さを教わった。

誰かのために自分の命というか人生を捧げる生き方もあると思うし、そういった場合は、自分の世界の中心は他の人になることもあると思う。

それでも、そういった生き方を自分の意思で選ぶなら、それもまたいいことだと思う。

自分も、自分自身じゃない他の人が中心になったこともあったし。それはお互いに、多分どちらかが中心にいるのではなく、お互いに相手の周りをぐるぐると巡っていた状況なのだと思うけど。慣れていないことなので、大変でもあったけどね笑 でも、それはそれで楽しかった。

自分が主役のこの人生、自分の心が動く方向に、自分の意思で進んでいきたいな。

そんなことをふと思い出した。

ではでは、またね。

2017年12月9日土曜日

数字の奥に何が見える?

今日はビジコンで事業計画の作成をしている受講生を対象に、キャッシュフローや投資の収益性の分析方法の基礎を話す機会をもらった、というか(同僚に)強制的に召集させられた笑

別にそんな大した講義をしたわけではなく、本当にすっごく基礎的な考え方と、その数字の意味を考えながら計画を作ることの大切さを伝えたくて、そこに多くの時間を割いた。

数字が持つ意味というか、それがさす本質的なことは何か?ということをしっかりと理解しようとしているのと、単にうわべだけのテクニックでなぞるのって大きな違いだと思うんだよね。

うわべだけのテクニックというのは、最短距離でそれらしい知識を得るにはコスパはいいのだと思うけど、やっぱり本質的な理解ができている人には遠く及ばない。

会計士という仕事がベースにあって企業の進出支援というコンサル(コンサルという仕事の名称は個人的には好きじゃない。だって、コンサルなんて明確な定義もないから、言ったもの勝ちな世界の曖昧なものだから。もちろん、ちゃんと、ほんとにやばいレベルの達人もいるのだけど、でもそうじゃない人も多いから。。。)の仕事をしていると、会計の本質をわかってないなーと思うコンサルにも会うことがあって、そういう時に違和感を感じる。

例えば、コンサルがいう、数字の見せ方が大事です、というアドバイス。

数字の見せ方が大事なのではなくて、数字そのものが何を意味するか?を考えることが大事なんじゃないかなー、と。

そういうコメントって、結局、なんでそういう数字になるのか?という本質的なことの理解よりも、ぱっと見の見た目、なんだったらピンクで装飾するとか、綺麗なフォントを使うとか、というのと同じレベルの話でしかない。

とはいえ、意外と、そういう風に捉える人が多いのであれば、そういったアドバイスも実は意味はあるな、とも思うけど。でも、そう言ったアドバイスしかできないのでは残念だなーとも思う。

個人的には、全然、好きじゃないけど、会計っておもしろいと思うんだよね。この表現、すっごく矛盾してるけど笑

日々の経済活動を数字で表す手段として簿記があって、どうやったら現実の経済活動を数字で表せるか?といった理論的な背景を扱う財務諸表論とか会計学って学問があるんだよね。

その残念な人たちは、たぶん、簿記しか知らない。ただの数字の羅列ぐらいにしか見えていないんじゃないのかな。だから、飾ったり、変な意味を持たせようとしてるのだと。

でも、その数字が作られる理論的な背景も知ってると、もっとおもしろいと思うんだけどね。

とは言っても、自分は簿記も会計学も全然好きじゃない笑

そんなことを考えていたら、すっごく久々に経済学をもう一度勉強してみようかなーという気になってきてる。

実家の自分の部屋の隅っこにあるダンボールの中に昔勉強してた時のファイルが眠ってるはず。

経済学もおもしろい。まぁ、そもそも「人間が合理的な意思決定をする存在である」という前提で数字で考える学問なので、そもそもの前提が間違ってる気もするけど笑

人間なんて非合理的な意思決定をしまくっているではないか笑

でも、人間の行動を数字で表そうと理論的に考えていくその過程はおもしろい。

今度、実家に帰ったら昔の経済学のファイルを探してみよう。

ではでは、またね。

2017年11月27日月曜日

地獄の景色


自分が地獄のような状況にいるとして、自分の目の前に広がる景色を他の人に語るなんてことできるだろうか?


あちこちが火を吹いている状況で、そんなこと聞かれても、かまっているヒマなんてないし、自分は「うるせー!」と思うか、実際にそう言ってしまうだろう笑

自分が体験した地獄のような景色を他の人に話せるようになるには、少し時間が必要

願わくばよい結果にたどり着いていたいけど、そうでなくてもその出来事を自分の中で消化できてる状況になっている必要があるのだと。

自分自身を考えてもそうなのだから、地獄のような状況にいる人に対しては、そっとしておく、というか距離をたもつ、というのも一つの選択肢なのだと思う。話がしたいと言われれば一緒に考えればよいことなのだと。

自分はホントに悩むような状況だと、独りで考えるのが好きなので、特にほっておいて欲しい派

他の人との会話を遮断する気ははいけど、まぁ、そのテーマについては、自分で考えてるからさ、という感じで。

とは言っても、同じやばい状況を共有している仲間や、そう言った時でも気兼ねなく話せる仲間がいるってのはステキなことだと思う。

そういう仲間が増えていけば人生、もっと楽しいんだろうな。

そう思う。

ではでは、またね。
脇坂

2017年11月18日土曜日

安全第一

今回のブログは、いま、自分が課外活動?として参加している湘南塾での投稿から。

湘南塾に興味をもったら、こちらで自分を含む事務局メンバーが思い思いにブログ記事を連載しているのでみてみてくださいー
http://shonan-juku.com/

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今月の月次投稿のテーマ「趣味」

なんとなく自分もそのテーマで書いてみようと思って、実はほぼ書き終えたんだけど、結構、自分が普段話していることなのであまり面白くないかなぁ、という気もしてきたので書き直してみる。
今回はちょっとした自己紹介もかねて、あまり普通の人が体験してこなかったことの話を書いてみよう。

ちょうど今から10年くらい前の2008年から、自分の人生のなかでちょっとした急ハンドルを切って、平和学とか紛争解決学というジャンルの勉強や、その後に、紛争を経験した場所での民族和解の支援といったことを仕事にするようになった。

その時くらいから、一般的には治安があまりよくないと言われているところにも行くことになったけど、さりげに自分は今まで危ない目はもちろん、何かモノを盗まれたりしたことがないんだよね。

もちろん、ただただラッキーという要素もあるのだろうけど、やっぱりそういったことが起きづらい行動もしているんだろうな、と。

同僚で出張に行くたびに何かに巻き込まれている、というか引き寄せている人もいるし笑

そんな自分が今までに受けた研修でおもしろかったのは、「正しい捕虜の捕まり方」とでも言える研修。正式名称は、Safety in the Field。トップの写真はその時のもの。

タイの国軍の訓練キャンプを借りての安全管理研修は、無線の使い方、検問のシュミレーションや、移動中に拉致られて尋問される、といったフィールドワークがセットになったもの。

模擬地雷原を歩いてみる、という課題もあったり。地雷の模型を見ながら、このタイプの対人地雷はもっとも殺傷能力がヤバいので気を付けましょう、とか。

いつ使うんだ?この知識、とか思いながら。

その後しばらくして見たテレビドラマの24で、同じ地雷が使われていて、あ、そこリアリティにこだわってるんだ、とか思った記憶も。

あとは、よくこれもテレビの無線通信で見るAlpha, Bravo, Charlie, Delta, Echoといったアルファベットのスペルの正しい読み上げ方を練習させられたり。これは、たまに海外の人と電話とかでメールアドレスや、名前のスペルを伝える時にちょっとだけ役に立つ(笑)

地雷原のヤバさを体験する練習と同じレベルで、絶対にこの状況になりたくないなーというのは、「300mの距離からライフルで狙撃されている時に、自分の方向に向かって撃たれている場合と、自分とは違った方向に撃っている時の音の違いを覚えろ」というもの。確かトレーナーは、supersonic soundとか呼んでいたと思う。確かに、実際に(安全な場所で)自分の方に向かって撃たれてみると、確かに違った。でも、この経験を生かす状況が現実になったら最悪だ。

一度、南スーダンのジュバにいた時に、夜中に発砲音を聞いた時は、ちょっとだけ、この時のトレーニングを思いだした。まぁ、その時は、単に兵士がふざけて発砲していただけだと思うけど。

トータルとして、このトレーニングを受けてわかったことは、ヤバい状況にまでなるようなことになったら、もうどうにもならない、という至極あたりまえのことを再確認。ただの民間人な自分にはどうすることもできない状況になる手前で、回避行動をとることが大事、ってこと。

あと、たぶん自分が危険な目にあったことがないのは、low profile。目立たないようにするってことが大きいのかな、と。まぁ、アフリカとかに行けば東洋人というだけで目立つけど、後はシンプルにお金を持ってなさそうな見た目にすること。これってやっぱりお守り的な効果は大きいと思う。

最近おもしろかったのは、自分は東アフリカから横移動で西アフリカに行って、その時に日本から直接やってくるうちの社長と西アフリカのベナンで待ち合わせをした時のこと。特にうちの会社は、私服でユニフォームなんてないのに、空港に迎えに行っていた自分も、日本からやってきた社長も、黒い半袖のシャツに、グレーのワークパンツ、キャップにヒゲづらという同じスタイルだったこと。あ、同じ思考回路で行動してる(笑)

出張時の正装モード(笑)

研修の時にトレーナーがいいことを言っていて記憶に残っているのが、「あなたたち自身の安全を確保することが一番大事です。仮にあなたたちに何か被害があったら、あなたたちがやりたくて活動していることを続けるのが難しくなるのは容易に想像がつくでしょう。だったら、短期的な損得で危険を冒すことにメリットはなく、自分がやりたいことを続けるためにも、安全に活動して、そしてちゃんと帰ってくることでやりたいことを続けましょう。」と。

やりたいことを続けるには、安全第一!

ではでは、また。

脇坂

2017年10月22日日曜日

状況に対する責任、その意味

ここ最近感じていたモヤモヤ感にスッとしみた言葉。

「結果に対する責任」という言葉はよく聞く。自分も経営者としての立場ではないけど、社内のプロジェクトの責任者をしているなかで、プロジェクトの結果に対する責任はもちろん自分にある、と感じている。

でも、ここ最近のできごとは、責任が自分にあるという自覚だけでは、足りていないんだという自分の未熟さを知った。

「結果に対する責任」を果たすには、それに至った「状況に対する責任」をしっかりと果たさなければいけないのだと。

こういった話になるのは、悪い結果、につながった場合。

で、そういった望んでいなかった結果にいたる状況について、自分自身もそこに深く関わっていたのに、、、ということ。

自分自身のここ最近のモヤモヤの原因は、まさにここ。

もっと言ってしまえば、全く1ミリも想像もしていなかったことが起きてしまって、それが自分の計画の中でとても重要だった、ということ。

結果としては、当初の計画を大きく変更しなければいけないのだから、それに関わっていた自分には、今の「結果に対する責任」があると考えていたんだよね。

そのできごとは、人によっては、まぁ誰も予測もできない予定外だよね、といってくれる人たちもいるようなくらいに予想外のできごと。でも、それは、自分としては、どうにもできなかったことだから仕方ない、という風には思えなくて、そういう結果を招いたことは、自分自身に至らなかった未熟さがあると感じていた。

でも、それはつまり、どういうことなんだろ?どうしたらもっと先のステージに自分自身が進めるのか?ということは分からずモヤモヤしていた。

「結果に対する責任」を果たすには、それに至るまでの「状況に対する責任」をしっかりと果たしている必要があるのだと。その「状況に対する責任」とは、あらゆる可能性を認識して、それに対する準備をしていること。

つまり、青天の霹靂のようなできごとが起きないように準備すること。そのためには、
・どうしても起きて欲しくないできごとが起きそうになった時にその兆候に気づけること。
・そういった兆候を把握した時に、それを回避するための適切な対応がとれること。
が必要なのだと思う。

そういった責任をしっかりと果たしてからじゃないと、本当の意味での結果に対する責任なんて負えないんだろうなーと感じた。

この間の湘南塾http://shonan-juku.comのしくじり先生の回で、自分がプレゼンをさせてもらった内容に、参加者の先輩から、「それって全然しくじりじゃなくない?」と言われた時に、自分としてはもっとうまくできたかも知れない、という思いはあったけれど、確かに振り返って見れば、自分の考えとして、その時に起きてしまったネガティブな可能性も織り込み済みな上で、それでも目的を達成するためにはこういった行動を取らなきゃいけなくて、その結果として、そういったネガティブなできごとも起こりえるなーということを想像していた。

そういう場合には、あらかじめ予見した上で行動していたのだから、本当の意味でのしくじりではない、とも。だから、その時の結果をダメだと言われたら、まぁ、その結果に対する責任は自分にある、というのもとてもしっくりきてた。

で、自分が本当に犯した最近のしくじりは、全く予想もしていなかったネガティブなことが起きてしまったこと、なんだと。

さらにもどかしいのは、そういうネガティブなできごとが起きたという現在を知っているにもかかわらず、過去の自分がどういうアンテナを張っていればでそういうことが起きるかを予見できたのか?予見できたとしてそれに対する対処として何ができたのだろうか?ということが、今の今になってもわからないということ。。。

そいういう意味で、今の自分には視野の広さがまだまだ足りていないし、視野が広がったとしてもそれに対する適切なアプローチを見つけ出す力も足りていない、ということを実感した最近。

まだまだ目指すべき高みは遠いな。もっと前に進めるようにしなくては。

ではでは、またね。

2017年10月14日土曜日

仲間

ブログを書くときはだいたいタイトルが先に浮かんで書き始めるんだけど、今回は書きたい内容は浮かんでいるのにタイトルがしっくりこない。最後まで書いてみて、考えよう。

自分が好きなことというかやりたいことをやっていて、楽しいことばかりではない。もちろん、それでイヤになって進むのをやめる気はないのだけど。

今の仕事は、一人だけではできなくて、自分がやりたいことのために、周りの人を巻き込んでいる。

一緒にやっていこうとすれば、相手との距離もどんどん縮まっていく。まぁ、自分の一緒にやっている人はみんな同世代のおっちゃん達だけど(笑)

うまく進んでいるときもあれば、うまくいかないときもあって、そういった時は一緒にやっていた仲間の人生にも影響を与えてしまうこともある。

それは苦しい。正直に。

これからも一緒にやっていこうとする仲間が増えれば増えるほど、そういったことも増えていくのかもしれない。事業がうまく進んでいても、相手の、そして自分の人生の中で、悩みがなくなることはないだろうから。

でも、ここ最近経験して思うことは、仲間が楽しく一緒にやってよかった、と思えるようにしていきたい一方で、それが叶わなかった時には、それも受け入れることができるようにならなきゃいけない、と。

自分が誘わなかったら、連れていこうとしなかったら、違った結果になっていたのかもしれない、ということも考えたりするけど、でも、相手の人生を壊してしまおうと思って誘ったのではないのだから。同じ目標に向かって、突き進んだ結果なのだと。

もちろん、再び、一緒に進めるようになったら、また、一緒に進みたい。

そんなことを思うここ最近。

ではでは、またね。



2017年8月29日火曜日

twitter

なんとなくの流れで、twitterはじめてみた。

 FBにtwitterにinsta、さらにこのブログ

さすがに多すぎる気もするけど、まぁ、新しいものは結構好きなので、ゆるゆる気楽にやってみよう。

ブログに書くほどじゃないことを書いていく感じなのかな。

のんびり続けてみます。


ではでは、またね。

2017年7月13日木曜日

道なんて後からできる!

ちょっと前の話。

中学生だった頃に好きだった先生が「道なんて俺が歩いた後にできるんだ!」とよく言っていたのを思い出した。

その先生に憧れた、というよりは、そうだよね、そんなもんだよね、と思ったんだよね。

誰かがすでにやったことなんてやってもつまんないし、自分がやりたいことをやって生きていきたいとその時も思っていたから、ごく当たり前のことな感じも。

ここ数年やってきたビジコンや、いまのうちの事業も、初めは誰もやっていなかったけど、最近、似たことを始めた人や、中には自分たちが作った募集要領を丸コピーしてきた人もいたりして、ちょっとづつフォロアーも増えている。

まぁ、誰もやっていないことをやっていきたいとは思いつつ、その後に誰も続いてみようと思えないことはさすがにヤバいので、こんな感じでフォロアーが増えてくるのは、いいことだ。

あとは、別に、うちが元祖です、みたいな意識は重要じゃなくて、大事なのは、後から来た人のサービスと比べてもうちが一番よいサービスを提供できること。それを目指していれば、もっとよくなれるし、もっと前に進める。

そんなことを思ったのは、いま、始めている新しい取り組みも、まぁ、また参考になるようなものはなさそうで、その意味ではいい感じで自分好みで、初めての経験で、うまくいかないこともたくさんある(笑)

まぁ、それを言ってしまえば、ビジコンから始まった今までの流れも最初はうまくいくかなんてわからなかったし。どうやって進んでいこうか悩ましいこともいっぱいで、うまくいくかはわからないのが正直なところだけど、そんなの気にしてなくて、成功させる気はいっぱいだった(笑)

いまも、そんな時の気持ちに近いな、と。いい感じ。ぐりぐりと進んでいくしかない。

で、冒頭の先生。

思うのは、ちょうど大人たちがつまらなそうに見えてくる中学とか高校の頃に出会う素敵な大人ってやっぱり大事だなー、と。

その人に憧れてはいない気がするけど、でも、大人になっても「道なんて俺が通った後にできる!」とアホなことを本気で言っていてもいいんだ、と勇気付けられたのは確かかな。

なので、今も自分の精神年齢は中学生の頃と同じ(笑)

その先生のセリフで「世界は俺を中心に周っている!」ってのもあったけど、それはまた今度。

ではでは、またね。

2017年6月16日金曜日

進んでいく先

少し前になってしまうけど、1ヶ月ちょっとカンボジアで仕事をして、やっぱりフィールドで仕事をするのが好きだな、と改めて思う。

休みも、自分としては当たり前だけど、ぜんぜんなくて、それはそれでいいのだけど、なんとしても前に進みたいから。

日本に帰ってきて、友だちと飲んだ時に、「そんなに働くなんて、会社にこき使われてるね。」と言われたけど、すごい違和感(笑)

別に、会社に言われて休みも働いていたわけじゃないし。

「仕事好きなんだね。」と言われたけど、それもちょっと違うんだよね。

仕事が好きなんじゃなくて、やりたいことを仕事にしているという感じ。やりたいことなんだから、別に辛くもないし、やりたくもないことをやらされているわけでもないんだよね。

嫌な仕事だったら、ちょっとの残業すら嫌だし(笑)

そして、たまに思うのは、自分がやりたいことをするんだったら、自分で会社をやってもいいのかなぁ、と。

自分で会社をやりたい気持ちがあるにはあるけど、まだ、それは30%くらい。

結局、自分のクラアントの役にたたなければ、というのが一番だから、それを考えると今の会社にいることでクライアントの役に立てることは多いと思う。

そう考えると、今は、7:3で会社にいるのがよいんだろうなーと。

好きなことをやっていくためにも、やっぱり今が大事だから頑張らなきゃと思う。

まぁ、大事じゃない時間を過ごすようになったら、そんな状況は飽きちゃって自分は別のことを探し始めるのだろうけど(笑)

ではでは、またね。

2017年4月5日水曜日

卒業と新たなフィールドへ


最近の自分のサイクルを考えると、だいたい2年単位でメインの活動が変化している。

自分たちもベンチャーなのだから、立ち上げ期は、周りの環境のなかで目指すポジションを見つけて、そこに進んでいって。

辿り着いたら、そこから見える景色を踏まえて、また次を考える。

4年前のビジコンから始まって、ベンチャー企業の新興国進出を後押しするところまで、ここまでそれなりにできた。

これまでのフィールドも自分がやりたい、と言ってやらせてもらったので感謝してる。それに、タイミングとかの運もよかったのだと思う。

そして、次に目指すのは、進出したベンチャー企業をぶっちぎりで成功させたい。

それができることでうちのチームはもっと強くなれるし、自分のやりたいことにももっと近づける。

そういう訳で、今日はこれまでの活動からは卒業で、明日からは、新たなフィールドに突っ込んでいく!

そんな日。

ではでは、またね。

2017年3月18日土曜日

戦争学と平和学


平和学をやってきた自分の感覚として、
戦争学と平和学は、なんとなく相性が悪い(笑)

でも、たまに戦争学の視点からの本を読んだりもする。そして、戦争学の視点からはこうなんだなーとか思ったり。

今度、戦争学と平和学について、紹介させてもらう機会をもらったので、改めて戦争学と平和学ってどう違うんだろ?と。

下の2つは、戦争学と平和学の大学院の紹介文の一文。



... explores the phenomenon of war and conflict, along with its causes, conduct and consequences, from historical, political, philosophical, military and sociological viewpoints.

... is a field of social science focused on the multilevel study of violence and conflict in a complex and increasingly inter-dependent world.

最初の説明が、King's CollegeのWar Studiesの大学院の紹介文で、
2個目の説明が、自分もいたBradford UniversityのPeace Studiesの大学院の紹介文。

ちょっとニュアンスは違うけど、紛争をテーマに様々な視点から研究する、って結構似たことを言っている。

ざっくりと考えれば、戦争と平和が交互に訪れる(戦争の終わりに平和がきて、平和の終わりに戦争がくる)、もしくは共存している、とも言えるので、表裏一体というか、研究のテーマは近いところにあるとは思うけど。

戦争学は、戦争そのものがテーマなのだから、よりpractical(実践的)なのか?
平和学は、平和という理想を追求するのだから、よりidealistic(理念的)なのか?

そういった側面もあるかもしれないけど、戦争学のテーマにも理想とする形があるわけでそれを目指している人はいるはずだし、平和学もそのアプローチを実際の現場でやっている人もいる。

でも、一つ、自分が感じる違いがある。誰のために存在しているのか?という視点。

戦争学は、戦争遂行の当事者となる、国家や政府といった組織のために存在していると思う。

平和学は、もちろん平和をめざす国家や政府のためにも存在するし、(機能しているかは別にして)国連とか国家以外の枠組みのためにも存在していると思う。さらに、こういった大きな単位のためだけにあるのではなくて、この世界で生きている一人一人のためにも存在しているのだと思う。

戦争学の視点の研究も興味深いし、参考になることもあるけど、
自分は平和学の価値観の方が心惹かれる。

この世界を平和にするには、どうしたらよいか?ということを、別に政府や国連といった大きな組織だけではなくて、一人一人の自分たちの行動として実践していくんだ、と。

そして、その気持ちは、今の自分の仕事にもつながっている、というか
自分は子供の頃に思った世界が平和になるような仕事がしたいってのと
同じ思いにひっぱられて、今もそれに向かって進んでいるんだよね。

まだまだやりたいことはたくさん。
ぐりぐりと進んでいくんだ!

ではでは、またね。

2017年3月12日日曜日

極限点

限界なんてあるなんて思いたくない一方で、今の自分たちの限界点のイメージも必要だと思う。

そう、あくまで ”今の”自分たちの極限点。

今の自分たちの力の源は、日本のベンチャーや中小企業のサービス・製品・商品。

日本の企業の特性にあったビジネスモデルを考えることが必要なんだと思う。

たまに考えるざっくりとした人口動態。過去20年の日本の人口動態。少子高齢化。労働力となる人口が減っている社会。

そして国内の経済活動という面では、長期停滞、とすっごくネガティブなイメージ。ドルベースでは、為替レートの影響で円高の年だったりすると急にGDPが増えたりしてるけど、ざっくりとみれば、ほぼ横ばい。

新興国や周りの経済が成長していることを考えると、やっぱ停滞だよなーとも思うけど、「労働力が減っていて、それに伴って消費する力も減っている」ってところを踏まえると、その中で同じレベルの経済規模を維持している、と考えれば、少しポジティブになれる気もする。

日本の(労働人口に近い)15才〜64才の人口は、1995年頃にピークの8,700万人が、2015年に7,700万人に減少。2050年には5,500万人と、減り幅はやや小さくなるものの今後も減り続けるらしい。

労働人口が減りつつも、同じ市場規模を維持している、というのは、日本の企業にとってとってもポジティブな側面でもあると思う。同時期にデフレで悩まされた経済という印象もあるから、一概には言えないけど、ほっとけば縮小してしまうマーケットの中で、質の高いサービス・製品・商品を、高い価格で販売する、といったモデルには活路があるのでは、と思う。

そして、少子高齢化が進んでいるのは日本だけじゃなくて、最近言われている中国や、さらに東南アジアのタイやベトナムでも日本がここ20年で経験した少子高齢化と労働力の減少が始まる。

15才〜64才の人口が占める割合でみれば、
・タイでは、2014年頃から
・ベトナムでは、2015年頃から
すでに労働人口の減少が始まっているらしい。

15才〜64才の人口でみても
・タイでは、1990年の3,700万人から増えた人口も、2016年頃の4,900万人がピークで、2030年には4,500万人。
・ベトナムでも、1990年の3,800万人から2020年頃までに一気に6,700万人まで増えるけど、その後はゆるやかにピークを迎える2035年でも約7,000万人。

ASEANの中でも、経済成長の余地が大きいとも思えるカンボジアやミャンマーの人口動態は?同じ年齢レンジで:
・カンボジアは、1990年の500万人が、2020年に1,100万人とほぼ倍に。労働人口のピークを迎える2045年頃に1,500万人。
・ミャンマーは、1990年の2,400万人が、2020年に3,900万人とざっくり1.6倍に。参照できる世銀の情報の2050年まで増え続けるけど、その人口は4,300万人と総数はあまり増えない。

似たようなマーケットとして、ラテンアメリカ。
・ブラジルは、1990年の9,100万人から、2020年に1億5,100万人。労働人口のピークは、2035年頃に、1億5,600万人。
・メキシコは、1990年の4,900万人から、2020年に9,000万人。労働人口のピークは、2045年頃に、1億500万人。

こういった新興国の市場では、過去20年間の人口増加による経済成長は続かないと思う。国内消費だけじゃなくて、輸出もあるから、その部分はこのブログでは抜け落ちているけど。とはいえ、国内市場は、経済成長の程度の差はあるだろうけど、作れば売れるというモデルから、日本が経験したデフレのような世界の中で、質の高い単価の高いサービス・製品・商品へのニーズも高まるはず、という予感もする。

こうやってみると、日本のベンチャーや中小企業が、輸出のための生産地ではなくて、現地の国内市場を狙う進出先としては、人口動態とともに経済成長のトレンドが変わり始めている地域に可能性があるのかな、と最近思う。

これが正しい見方なのかは、何十年かしてわかるのかな(笑)

それ以外のマーケットへの可能性は、長くなってしまったので、また次回。

ではでは。

2017年2月24日金曜日

ご活躍を確信します

ひさびさにしびれる言葉をいただいた

今の仕事をしていて、生き方というか魂というか、心意気のようなところで、こういった人たちと一緒に仕事をできるっていいな、といつも思うし、だから、自分も前にぐりぐり前に進んでいくんだ!と思っているけど、かけてもらったセリフ自体にしびれるなんて経験はほとんどないんだよね。自分の性格的に。話の内容は大事にはしてるけど。

でも、何気なくもらったメッセージにひさびさにぐっときた

なんか力を与えられるというか

そんな感じ。

もちろん、セリフ自体が大事なわけじゃなくて、誰の言葉なのか、ってところが大事なのだけど。

「ご活躍を確信します」

こういったことをさらっと力強く言える大人になりたいな。

そんなことを思った。

ではでは、またね。

2017年2月20日月曜日

久しぶりの雨

ここ最近晴れる日が続いていると、毎日が晴れるものだと錯角してくる。

雨はいつかふるんだよなー と傘を忘れた今日思い出す。

そんな感じ。

たまにはゆるゆるな感じで。

ではでは、またね。

2017年2月7日火曜日

情熱

右脳は感情、左脳は理性。

なんとなくそんなことを言われてる。

自分と同世代くらいの人にあるあるなのかも、と思うけど、小学生の頃、なぜか知能テストの代わりなのか、よく右脳思考、左脳思考を判定するテストを何度か受けさせられた。

同級生の大半は、右脳派、左脳派に分かれるんだけど、自分はいつも「どちらでもない」という結果だったんだよね。

感情と理性。

自分自身をみてみると、この両方が混在した性格なんだと今も思う。

どちらの一方にも振り切れないというか(笑)

この二つの思いが一致しない時もあって、そういった時にやっぱり考えること。

最後は、情熱が大事だよね、と。

この言葉、情熱、が自分に力を与えてくれる。そう思う。

ではでは、またね。

2017年2月6日月曜日

時計の針:その2

今から4年半前に投稿した「時計の針」というタイトルの自分のブログを、ほんとに4年半ぶりに読み返してみた。

今の自分が感じている感覚は、その時の投稿とはぜんぜん種類が違うけど、「時計の針」という投稿したことを今日思い出した。

仕事をしているといろんなタイミングでの意思決定が必要になる。

意思決定は、自分一人の自分自身の覚悟というような自分自身で完結するものから、誰かと一緒に決定しなければいけないものもある。

誰かと一緒に意思決定をする時、お互いのタイミング、お互いの状況というのはとても大事なんだと改めて思う。

自分自身がこれまでの経験から考える価値観(しかもそれが絶対的なものではなく、これまでの蓄積という経験を元に今の自分が持っている考え方)と、相手の価値観が、時に、方向は同じでも、今この時点の判断として、一致しないこともある。

どちらが正しいというのではなくて、それぞれが今までの経験と今の自分を元に今の判断として、お互いに判断した結果であるなら、そこで生まれた結果は、今の自分たちにはそれが今の答えなのだと。

別に、将来、どちらの判断が正しかったのか、を競う気もないし、それに価値はないと思う。ただ、自分とは違う考え方があることを受け止めて、そういう考え方もあるのだと知ること。それをこの後の自分にいかしていきたい。

そうゆうことを繰り返していくなかで、今とは違う、もう一歩成長した自分たちに続いていくのだと思う。

そんなことを考えた一日。

ではでは、またね。

2017年2月5日日曜日

コーヒーの焙煎

ここ2年くらい、週末にコーヒーの焙煎をするのが習慣に。

20才くらいから、ほぼ毎日、豆を挽いてコーヒーを飲んできたので、普通の人よりはコーヒーは好きだと思う。

でも、海外出張にいってしまえば、手元にインスタントコーヒーしかなければ、全然毎日インスタントコーヒーでも構わない。

そんな自分だったけど、焙煎をするようになって、明らかに味が違うコーヒーを知ってしまうと、日本では焙煎したコーヒーから離れられない。

今日焙煎したのは、エチオピアのイルガチョフ。

もともとフルーティなタイプと言われてるけど、今回の焙煎では、なんか紅茶みたいな香りがするコーヒーに。こんなフレバーにもなるんだなーと。焙煎、おもしろい

自分で焙煎始めるまでは、コーヒーといえば、ほぼ、インドネシアのマンデリンしか飲んでなかったけど、焙煎を始めて、一歩踏み込んでみると、今までに知らなかったことを知れて、ますます深みにはまった。こういうの楽しい。

2017年1月30日月曜日

特化して個性をだして、その先に

新しい事業や部署を立ち上げる時に、自分も含めて、みんなが考えている「どうやって周りとは違う特化した個性をだしていこうか?」といった話。

何かを始める時に、まずは周りの景色をみて、そこから何かを始めるわけで、そうすると、大体の人は、他の人とは違うことをしよう!ということ考えると思う。

自分も、いつも通り、「他とは違うことをやりたい!」と考えて今のBIGのイメージを作っていったし。

でも、考えれば、何かに特化するとはいっても、立ち上げ期のリソースもない状態での特化、ってある意味、「ピンポイントでここだけは違うんだ!」というとっても限られた限定的な個性でしかない気もする。

自分たちが気づいていないだけかもしれない可能性も含めて、立ち上げ期にイメージしていなかった競合がいつか現れるはずで、そういった競争相手が、自分たちのピンポイントの個性への対抗手段を考えてきたら?

特化するといっても、ピンポイントの限られた対応力しかない組織は弱いと思う。競合が出てくることを想定して、対応力を高めるには、自分たちができるサービスの幅を、ピンポイントではなくて、広げていくことが必要なんだと思う。

生き残って強くなっていくために。

新しい部署としてBIGを立ち上げて2年ちょっと。立ち上げ期には思ってもいなかったくらいに、ある意味うまく進んできたとも思うけど、でも、心の中にある不安感というか、このままじゃいけない、という気持ちの原因はここら辺にあるんだと思う。

例えば、自分みたいなことをやりたいと思っている人がいたとして、そういった人が、今のBIGのようなことをコピーしよう!と思ったときに、正直、上手にやれるひとなら、それなりにコピーできちゃうと思うんだよね。。。

もちろん、今の状態で、完成だなんて全く思っていないんだけど。

うまくいった過去2年ちょっととは少し違ったアプローチに取り組むべきなんじゃないか、と思うこの頃。うまくいっているからといって、同じことを繰り返していたのでは、たぶん、競争上の優位性はどんどん失われていく。

自分たちにしかできない確かな個性とサービスの幅を広げていくこと、それが今必要だと思う。

ではでは、またね。

2017年1月26日木曜日

個性その2:考えてから?やりながら?

いろいろ考えることがあるとなんとなく自分の中でイメージが湧いてくる。

いまのベンチャーの立ち上げの仕事をしていて、思うこと。

「考えてから」という人は、なかなか計画ばかりで、実際の一歩が踏み出せない人が多い気がする。つまり、ベンチャーの立ち上げには、自分はこのタイプの人は向いていないと思う。

「やってから」という人。このタイプも危なっかしい。計画性がないから、どのタイミングで考え出すのかが読めない(笑)なので、一緒に仕事をするのは正直怖い。

世の中の人の個性を、そんなに単純には割り切れないかもしれないけど、なんとなくいいのでは、と思うタイプは次の2つ。

「考えながらやる人」

「やりながら考える人」

ここまでくると、ほとんど同じじゃん!と思うかもしれないけど、ここにも違いはあると思う。

自分は「やりながら考える」タイプだと思う。

どこら辺が違うの?

「考えながらやる人」は、状況の変化とかよりもまずは自分で考えて、行動をするタイプな 人だと思う。状況が変わらなくても、何か新しいことを考え出す感じ。

「やりながら考える人」は、状況の変化を眺めて、それへのリアクションとして考えて行動する人な気がする。新しいことを考えるには、きっかけが大事な感じ。

「考えながらやる人」は、自分発信で新しい動きにつなげる人だから、それは「やりながら考える」タイプの自分にとっても貴重な存在。

でも、「考えながらやる」タイプは、状況の変化を、新しい行動のきっかけにはしづらいとも思うので、変化の時には、少し考える時間が必要なのかも、とも思う。

「やりながら考える」派の自分は、「考えながらやる」人が作ってくれるきっかけも、状況の変化の一つだから、結構受け入れやすいのかな、と思う。

どちらも必要なのだけど、1人2役はなかなかむずかしいから、そうった人が集まるチームは強いと思ったここ最近。

ではでは、またね。

2017年1月25日水曜日

個性:カオス派と秩序派

今のBIG(ビジネス・インキュベーション・グループ)の立ち上げ期に、今もその延長でしかないけど(笑)、いてくれてとても嬉しかったというか、助けられたのは、視野の広いメンバー
ついついみんな常時パニック状態だから、目の前のことでいっぱいになっちゃいがちだけど、そういう時にいい感じで、優先順位をつけて仕事をしてくれる人は貴重
あ、あそこがやばいな〜 誰かを回さないと、って自分も思ってる時に、私が行きます!って気付いて動いてくれる人
みんな忙しいから、頼むのも少し気がひける訳で(笑)
一種のダメージコントロールのスキルだとも思う。立ち上げ期って、常時、どこかが火を吹いている訳で、致命的なダメージを受けないようにバランスをとるイメージ
自分はどちらかといえば、こういった乱戦(カオス?)状態が好きだけど、全員がそれだと組織は持たない。ただただパニック(笑)
そういった訳で、自分とは別の組織に秩序をもたらすタイプの人も、組織を大きくしていくのにやっぱり貴重なんだよなーとも思う。
そして、カオス派の自分は、秩序派の人に適当すぎる、とよく怒られる(笑)

2017年1月21日土曜日

新興国ビジネスで富裕層を狙う

新興国や途上国でのベンチャーと関わって仕事をさせてもらっている中で感じること。

現地の人が必要とする製品やサービスを、ビジネスを通じて提供していくこと、それにはとても価値がある。だって、お金を払ってまで欲しい、必要だ、と現地の人が考える価値のあるものを提供できているんだから。

そしてもう一つ、新興国や途上国でビジネスをやることの意味として思うこと。

ここ1年くらい、カンボジアでの仕事ができて、10年ぶりくらいにカンボジアの首都プノンペンに何度も行くようになって、気づいたこと。プノンペンにはレクサスがたくさん。ほんとに、市内ですれ違う車をぼーっとみていると10秒に1台はレクサスとすれ違うイメージ。

しかも、このレクサス、みんな新車で買っているとの噂。プノンペンにあるレクサスの台数は、東京よりも多いらしい、との噂も。でも、こんなにたくさん見かけるんだから、それも本当なのかも、と思えてくる。

でも、カンボジアは、国全体で見れば、まだ1人あたりGDPで言えば年間1000ドルをちょっと超えたくらいで、まだ一般的には豊かな国とは言えない状態。でも、街中にはあふれかえるレクサス。。。

これは今まで裕福であった人が、そのお金を使って新しいビジネスをして、さらに豊かになっていく。そうして、国の中の格差がどんどん広がっているような気がする。

ここに突破口を作るのも新しいビジネスの役割なのだと思う。

考え方によっては、新興国でビジネスをしたいと思う人は、その国で貧しいといわれる人たちにを対象として、そういった人たちの生活がよいものになるような製品やサービスを提供したい、と思う人が多い気がする。

もちろん、自分が今、取締役として一緒に仕事をしている会社の製品もそういったコンセプトの製品で、それもとても大切だし、やりがいのあるビジネスと思うけど、富の偏りをなんとかするには、富裕層に対してアプローチするビジネスも必要だ。

富裕層から貧しい人たちにお金を強制的に税金のような形で還流させるのではなくて、富裕層の人たちが、よろこんでお金を使って消費する製品やサービスを、今は貧しい人たちが仕事を通じて提供できれば、それはすっごく意義のあること。

富裕層から得た収入を、労働を提供した人にちゃんと対価として還元する仕組をともなうことで、富裕層からのお金の流れを作る。

そういったビジネスもどんどん増やしていきたいな。

ではでは、またね。