2009年3月20日金曜日

Freedom

Sri Lanka人で、Peace Study系のPhdを終えようとしている人(博士論文はすでに提出済みだから、間もなく終了らしい)と話をする機会があって、なんとなく政治体制の話になって、“なんで人は政治家になってその中で上り詰めたいのか?”ってトピックになった時に、彼は「自由を手に入れるためだ。」って即答したんだよね。確かに政府が特定の価値観に偏重していて、かつ国民の生活を厳しく規制するような状況に置かれていたら、確かに政治的に上り詰めることは、“政府から圧力を受ける可能性を減らすことが出来る(自分が権力の一部になる)から、より自由に活動することができる”って。言われてみれば確かにそういう面もあるかなって思うけど、自分の模範解答の中には、政治的に上のポジションを目指す人の動機として、“自由を手に入れる”というのは無かったから、結構新鮮だったんだよね。

だって、日本で普通に育った人だったら、大抵は自分の言動とかに関する自由なんて当然気にする必要もなく当たり前に持っているし、自分の人生に関してだってある程度かなり自分で決められる(当然、そこそこの努力は必要です)から、あんまり自由は欲するものではない気がして、これがやっぱり社会とかの環境が異なれば(ある意味当たり前だけど)自由は“手に入れるもの”なんだな~って思ったりもしたんだよね。

まぁ、とは言いつつも、自分も“自由は手に入れるものだ”という考えにはもともと賛成なんだけどね。だって、自分が生きたい人生を送るためには努力が必要で、それは自由は努力で手に入れるものって考えがベースだから。とは言いつつも、この時の会話での自由は自分の欲しがっている自由より、より死活的で重みのある自由だな~って感じたよ。自分の欲しがっている自由は、自分の人生にちょっとした刺激(生き甲斐??)が欲しいって、ある意味欲張りな自由だからね(笑)

ではでは。またね。
Tom