2010年6月24日木曜日

政治的に正しい判断

前にインタビューをした人が「政治的に正しい判断は、必ずしも道義的に正しい判断である必要はない。」と言っていた。それは当時のその人の内戦に関わる政府側の立場からのものの見方を反映していた。

この言葉の中で使われる“道義的に”という表現の意味するところは広いから、解釈の仕方も様々だとは思う。でも、どのように解釈しようとも言いかえれば「(政治的に追及する)究極の目的を達成するためには、(多少の)犠牲は止むをえない」という考え方であることには違いは無いと思う。“道義的に”という部分と“払われる犠牲”の兼ね合いの問題だと。。。

これを許容していいのか?

自分はダメだと思う。道義的には受け入れられない方法で達成された結果を将来受け入れることが出来るのか? 受け入れられないだろう。特にその過程で犠牲を払わされた方の立場からすれば。

そもそもこのような立場の人は、“道義的”に正しい結論を出すことよりも、“政治的”に正しい結果(その人にとって都合のよい結果)を出すことが目的になっていると思う。自分のグループの中で受け入れられる望ましい結果に固執するばかりで、“他者(周りの世界)”の視点が欠けている気がする。自分が所属するグループで自分自身を保身、昇進させる手段として、“政治的意思決定”をしているのだと。

政治家を職業とした時点で、自分を支持してくれる人々の存在は重要なものになっている。特に民主主義のもとで選挙がある以上は。“政治的に正しい判断”の全てが“自分の支持基盤にのみ利する行為になってしまったら悲しいね。何の将来のビジョンも描けないような人が政治を左右するなんて。

まぁ、それも今のこの国の政治なんだろう。裏を返せば、政治家が無能であってもこの日本という国は普通に回って行けるんだから幸せなことな気もするけど。昔、選挙の投票所に行って、誰も気に入った候補者がいなかったから、とりあえず自分の名前を書いて投票箱に入れたことを思い出したり。

あれ? 別に選挙がメインテーマではなかったんだけど。久々の作文は難しい。脱線したら戻れなくなった。。。

ではでは。またね。
Tom